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 ガールフレンド

  Taika Yamani. 

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   II


 ――ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
 目覚まし時計のアラームが、朝の静寂をけたたましく切り裂く。
 六月二十二日、木曜日。いつもより早い時間のアラームに、高槻初瀬の意識は急激に覚醒した。
 ――ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
 「ぅるー……」
 初瀬はベッドの上で寝返りを打って、ほっそりとした白い腕を頭上に伸ばして、目覚まし時計の頭を叩いた。
 ――ピピピピッ、ピっ。
 余裕を持ってタイマーをセットしているから、これで五分ごとに再び鳴り出すまで何度か時間が稼げる。初瀬はゆっくりと、黄緑色の半袖オープンパジャマから伸びる腕を夏布団の中に戻した。
 そのまま手足を小さく折り曲げて、初瀬は小柄な身体を横向きに丸める。取り戻した朝の静寂にまどろんで、腕と腕の間で柔らかく形を変える二房のふくらみを無意識に感じながら、しばし寝起き特有の浮遊感にたゆたう。
 最近は自然に目覚めるまで起きないという贅沢な生活を送っていたから、まだかなり眠い。普段より早い時間ということもあって、このまま二度寝したくなる。
 だが今日は、初瀬が女になってから、初めて学校に行く日。
 もう夏になる季節の朝の空気の中で、まどろみながら眠気と戦う初瀬の意識が、次第に一つの方向性を持ち始める。余計なことは考えたくないのに、初瀬の意識は今日も勝手に、自然に「今の自分の身体」へと向かってしまう。
 寝乱れて頬に流れる、無駄に長いしなやかな細い髪。
 着衣やシーツの繊維の感触まで変に敏感に感じ取る、なめらかで繊細な肌。
 以前よりも一回りも二回りも小柄で華奢なのに、要所要所がふくよかなまろみのある、ひ弱だが柔軟な肉付きのたおやかな肢体。
 ただ仰向けで寝ているだけでも、軽く寝返りを打つだけでも、初瀬は自分の身体が以前とは違うことを、過敏に体感させられる。変に意識したくないのに、今の自分の身体が女であることを、以前の男の身体ではないことを、初瀬は毎朝嫌でも意識させられる。
 胸部には以前はなかったまろやかな質量が存在して、寝る時は解放感優先でノーブラのせいもあるのかもしれないが、そんな乳房の重みの些細な移動にも敏感で。呼吸に合わせて震えるように息づいて、その先端も自然にパジャマに接触して、ブラジャーは身に着けたら着けたで気になるが、ないならないで落ち着かない。
 優しくフィットしたボックスショーツとパジャマのズボンに包まれた下半身も、男だった時とはあり方が違う。横向きに丸まっていても、わきの下から腰へと繋がるラインはほっそりとくびれて、柔らかな肉感のあるお尻は丸くふくよかで。下腹部もふんわりとなだらかに繊細で、毎朝痛いくらいに元気だった男性シンボルが、今の初瀬の身体には存在しない。そのかわりに当たり前に存在する女性の部分が、むずむずと朝の尿意を訴えてくる。
 初瀬は頭では前向きに開き直っているつもりだが、自分の身体が男ではなくなっていることが、女になっていることが、最近じわじわと心にしみてきている。もう毎日のことなのに、今日は目覚ましによる強制的な覚醒で理性が緩んでいるのか、いつも以上に鬱屈した気分になる。
 朝の貴重な数分間が、着々と流れる。
 結局五分間隔のアラームが鳴り出す前に、初瀬はもやもやした感情とまだ強い眠気を抱えたまま、ぼんやりと身体を起こした。
 就寝時は束ねていない長い髪が、さらさらと頬や胸に流れて鬱陶しい。
 眠気を堪えるように数秒じっとうつむいた初瀬は、視界の中の黒い髪とVネックのパジャマに覗く白い谷間から目をそらすように、寝乱れている長い髪を両手でわずらわしげにかきあげた。
 本人の自覚は薄いが、だんだん当たり前として慣れつつある、さわやかなシャンプーやリンスの残り香が、思春期の少女の寝起きの体臭に溶け合って、ほのかに甘く室内に漂う。
 初瀬は物憂げな動作で、ベッドの上で身体を反転させ、目覚まし時計のタイマーを完全に止めた。そのまま携帯電話を手に取って、メールの着信を確認する。
 そして、届いた二通のメールを読んで、初瀬はふわりと頬を緩ませた。
 一通は『楓の木のとこで待ってる。遅れそうなら電話して』と昨夜と言ってることが少し違う短いメールで、もう一通は『メール見てるの、もう朝かな? 初瀬くんおはようっ』『予報だと一日晴れみたいだから、お昼は中庭で食べよ。もう暑いかもだけど』などなどと長文気味な割に中身の薄いメール。
 何も特別な内容ではなかったが、初瀬の特別な二人の女の子からの、どこか気持ちのこもったメール。
 初瀬は今日も無意識に前向きな気分になりながら、携帯を置いて、二つの青いヘアゴムを左手首にまいて、ベッドを降りた。まだ違和感の残る自分の身体のバランス感覚に少し注意しつつ、そのまま勢いをつけて、爪先立ちになって大きくのびをする。
 「んっ、くっ」
 後方に持ち上げた腕の動きに合わせて、ゆったりとした黄緑色のパジャマの隆起が自然に前に突き出される。
 膝や太もももピンと引っ張られるように引き締まって、胸部や臀部の筋肉も伸縮する。初瀬は背伸びをしたまま左右に身体をひねって、下着の保護のない二つのふくらみが震えるように揺れるのを身をもって体感しながら、最後に深く息を吸って、腕とかかとを下ろした。
 メールのおかげもあって気分は悪くない朝だが、初瀬の身体は、毎朝恒例の、まだ不慣れな症状も訴えている。その生理現象、以前とは違う感じがする尿意を解消するために、初瀬はパジャマのまま部屋を出て一階に下りた。
 「ぉ、おう、初瀬、おはよう」
 「ん……、おはよ」
 洗面所前で寝巻き姿の父親と遭遇し、初瀬はちらりと見上げて、無防備な姿と声で挨拶だけ交わしてすれ違い、トイレに入る。ドアを閉めて鍵をかけて、洋式便器の便座を下ろし、パジャマのズボンと一昨日自分で選んだレディースの淡いグレーのショーツを膝までさげて、便座に座る。
 「…………」
 どんなに開き直っているつもりでも、その部分の違いは露骨で、いまだにもやもやしてしまうが、意識しすぎていたら毎日がきつい。さわらなくとも見なくともわかるその感触を深く考えないようにしながら、初瀬はまだ残っている眠気に心を任せて、できるだけ性的なことは頭から追い出して、じっと用を足した。



 トイレを出ると、左手首のヘアゴムを濡れないように肘の方に押し上げて手を洗って、初瀬はうがいなどをすませる。
 水道の水でぐじゅぐじゅと口の中をゆすいで、もやもやしている感情を整えて、少しずつ思考をしゃきっとさせる。
 うがいの後は、入院中に母親が用意してくれたヘアバンド――伸縮性のあるタオルのようなふんわりとした太いヘアバンド――で今日も邪魔な長い髪を押さえて、両手にたっぷり水を注いで、ゆっくりとすすぐように顔を洗った。
 初瀬のガールフレンドの佐藤美朝によると、朝の洗顔は必ずしも洗顔料まで使う必要はないらしい。もともと朝は水洗いだけだった初瀬は深く考えてこなかったが、洗いすぎると必要な皮脂成分や角質層などまで奪ってしまうことになるらしい。個人差も大きいようだから肌質や日々の状況や年齢などにもよるようだが、基本的には、充分に水を飲むなど日常の水分補給をしっかりとして、夜にちゃんと洗ってケアをするなら、朝は水洗顔で充分とのことだった。
 初瀬は最後にパシャッと顔を一撫でして、下向きのまま腕だけでタオルを取って、ふんわりと軽く押さえるように、タオルに水滴を吸い取らせた。
 続けて初瀬は、ガールフレンドの教えに従って、簡単なスキンケアにとりかかった。
 まずは化粧水を、けちらずに出して両手のひら全体に広げて、顔を下から上へ包み込むように、繊細な肌にそっとつける。鼻まわりや目のまわりは指の腹を使って、優しく撫でるように丁寧に手を動かして、ヘアバンドや髪につかないように気をつけながら、おでこから耳、首まわりやデコルテラインなどの露出する部分にもむらなくつける。
 次いで、鏡を見つめて変になってないか確認して、初瀬は胸を複雑にざわつかせながら、軽いUVカットの乳液を手にとった。適量を出して、ガールフレンドに教わった通りに、両手のひらでよく伸ばしてから、肌にのせるようにつける。
 初瀬は正直、基礎化粧品のスキンケア効果や美容効果について、まだよく理解できていない。ただでさえきめ細やかですべすべで抜けるように白い瑞々しい肌が、もっとなめらかに瑞々しくなったような気もしなくはないが、単にそうなるはずだという思い込みからくる錯覚なだけのような気もする。
 これまでこの手のものはろくにつけたことがなかったから、肌に少し違和感のようなものも覚えるが、これは最初だけで単に慣れていないせいなのか、それとも今の初瀬の肌に最適な品ではないということなのか、またはまだ化粧水や乳液など必要ないということなのか。
 『こういうのって、本気で気にするとキリがなさそうだな……』
 初瀬は想像するだけで面倒くさくなるが、長い目で見て何が最適なのか、これから色々と経験を積んで、自分なりに答えを見つけていくしかないのだろう。ガールフレンドが世話を焼きたがるし、今は不快でもないしまだ遊び半分でやれているし、二週間は様子を見る方がいいらしいから、初瀬はとりあえずは試用を続けてみるつもりだった。
 『でもなんだかんだで金もかかるし、女はやっぱり面倒くさいなぁ』などと思いながら乳液もつけ終えると、初瀬はヘアバンドを外して髪型を整えた。
 鏡の前で丁寧に櫛を通して、手早くきれいに梳いて、それから、もう一人のガールフレンドの春日井エリナがロングヘアの時に時々そうしていたように、二つの青いヘアゴムを唇にくわえて、両手を首の後ろにまわす。長い髪をまっすぐに、首の真後ろで二つに均等に分けて、左側の髪を左手でつかんで、右手で口のヘアゴムを取って、両手を使ってヘアゴムを二重に通す。
 右側の髪も同じように束ねると、初瀬は鏡を見つめて前髪も軽く整えて、最後にもう一度両手を首の後ろにまわして少しヘアゴムをいじって、さらっと後ろ髪を払って、鏡の前から離れた。
 部屋に戻ると、初瀬は忘れないうちに、半袖でむき出しになる腕にも軽いUVカットの乳液を塗っておく。夏至にあたる今の季節は、地上に降り注ぐ紫外線量が最も多い時期だと、ガールフレンドに念を押されている。腕に塗った後は、パジャマのズボンを脱いで下半身ショーツ一枚になって、寝乱れたままのベッドにお尻を乗せて座り込んで、細い足首から柔らかなふくらはぎ、膝に膝裏に肉付きのよい太ももまで両手でむらなく撫でて、ミルク状の液体を薄く広げる。
 きめ細やかな肌の吸い付くようななめらかな感触と、その素肌をぬるついたしとやかな手が這い回る感触。敏感な内太ももから、あったはずのものが存在しない脚の付け根の感覚に繋がる、まだ慣れないうずくような刺激。
 意識するつもりはなかったのに、初瀬の心と身体がざわつく。
 『……朝っぱらから、なにやってるんだかな……』
 紫外線対策やスキンケアなんて男だった時はさほど気にしていなかったから、初瀬はなんだかまた胸がもやもやしてきたが、女になった以上は美人の方がいいという偏見もあるし、とりあえずはちゃんとやってみるとガールフレンドと約束している。物事を深く考えずにやることは、何か失敗や後悔に繋がったりするかもしれないが、だとしても、美朝とエリナが一緒なら、わざわざこんなことで思い悩んだりするのも、初瀬はそれはそれでありだと思える。
 『後でみあに泣きついてやる』『でもさすがに毎朝やってたら色々きつくないか? ホントに慣れれば気にならなくなるのか?』『ズボンなら足までつけなくてもいいのに……』『ってか、学校行くだけなら腕とか足とかまではいらないんじゃないか? ほとんど屋内だし日焼け止め自体いらん気がする』『屋内やら日陰でも反射とかで紫外線三割とか五割とか、みあは年中対策いるって言ってたけど、化粧品会社の陰謀なんじゃないだろーか』『喉渇いたな、先にキッチン行けばよかった』『普通の女は、どのくらい気にして、どこまで真面目にこんなことやってるんだろ』『三日坊主になったらみあのやつむくれるかな』『いちいちこんなことやってるから、女の準備は時間がかかるわけだよなぁ』
 初瀬はやるせなさと湧き上がる衝動を抑えて、現実逃避気味にどうでもいいようなことをつらつらと考えながら、自分を律して気持ちを顔には出さずに、きれいな透明感のある無表情で、丁寧に手を動かした。
 終わった後は手を洗いたくなったが、何度も行ったり来たりも面倒くさい。『今度から日焼け止めは着替えた後だな』と、明日にはまた変わるかもしれない教訓を得つつ、手のひらを手の甲や腕になすりつけるだけにしておく。
 後はリップクリームを唇につければガールフレンドからの指令は完了だが、リップスティックは食後の歯磨きの後に使うことにして、初瀬はパジャマのボタンをはずして着替えに取り掛かった。
 微かにお尻に食い込むようなショーツを指で引っ掛けて直しながら、昨夜のうちに準備しておいたハンカチと靴下とスパッツとスポーツブラを確認して、初瀬は華奢な肩をはだけてパジャマを脱いで、ショーツ一枚の裸になる。
 自分の裸の胸部にある二房のふくらみを、初瀬は見るまでもなく意識しながら、朝の空気に晒されて震えるように揺れるその部分を覆うように、淡いグレーに縁取られた白色のブラジャーを身に着けた。
 後ろや前でホックで止めるようなタイプではなく、頭からかぶって着用するタイプの、胴体の上半分を覆うようなハーフトップブラ。吸汗速乾性や通気性や安定性が売り文句の、乳房に密着して支えて保護するような下着。
 まだまだ慣れない初瀬は、落ち着かなさげに胸部の脂肪をブラジャーの中におさめて、背中に挟まった髪を両手で払い、ふくよかで弾力のある乳房のおさまりを調節した。まろやかな表面の布地を五本の指で挟むように軽く引っ張って、柔らかな塊を手のひらで少し持ち上げるように、肩にかかる重みも軽減させるように、下着の中の密度と位置を安定させる。手をあてたまま何度も軽く背中をひねって、アンダーバスト部分やわきや背中、肩まわりや胸元なども指でいじって整えて、最後に、左右のふくらみを手のひらで包み込むようにフィット感と着け心地を確認して、深呼吸するように大きく息を吸って、胸から手を離す。
 そのまま下着姿で、初瀬は壁のハンガーにかけていた新品の服を手に取って、これまで男子として通っていた学校の、女子の制服に袖を通した。
 スポーツブラの上から、男子のシャツとは打ち合わせが左右逆で右側が上にくる、四つボタンの白い半袖オーバーブラウス。
 中学の時は、女子の制服は間に一枚着用するようなスクールインナーまで標準服があったらしく――上級生になると着用しなくなる生徒がほとんどだったようだが――、初瀬は何度か見たことがあるが、高校では特に明確な指定はない。だんだんと暑くなってくる今の季節、発汗対策などにその手のインナーを着るのもありだが、一枚増えるとその分暑さは増すだろうから、初瀬はとりあえず今日は他のインナーを着用せずに、スポーツブラの上に直接ブラウスを着て、上から順に丁寧にボタンをはめて、ふっくらとした胸部の下着と白い素肌を包み隠す。
 ショーツの上には、腰と太ももの上部を覆う黒いスパッツと、白黒タータンチェックの膝上丈のプリーツスカート。
 初瀬は前後ろを気にしながら、スパッツを穿き、スカートに両足を通した。時々無意識に太ももに力を入れつつ、おへその上でしっかりとホックをとめて、ファスナーを上げて。そこからホックの位置が左側に来るように、スカートを横に四分の一回転くるりとまわして、ウエストで支えるスカートの腰まわりを調整する。
 上下ともに制服姿になると、初瀬はまっすぐに、クローゼットの扉裏の鏡に向き直った。
 樟栄高校の女子の夏の制服は、夏らしく涼やかで清潔に明るい印象で、黙って立っていれば、今の初瀬にもよく似合う。裸の時より多少着痩せして見えるが、その分色気よりも清純さが引き立ち、ナチュラルに整った容貌と、艶やかな長い髪を首の真後ろで二つ結びにしているいつもの髪型との組み合わせは、きれいに落ち着いた雰囲気をかもしだしていた。
 が、一昨日の試着以来、改めて女子の制服を着た初瀬は、クローゼットの鏡の前で、初めて自分から女物の下着を身に着けた時のように落ち着かない気持ちになった。
 男女で明確な差がある、初瀬の学校の制服。
 初瀬の身体がもう男ではないことを、初瀬の立場がもう女であることを、自然に自己主張するような服。
 鏡の中のその「女子生徒」の姿は、全体的にどことなく初々しい。仕立てに余裕のあるおろしたての制服のせいなのか、それとも、その少女がスカートや女物のブラウスを着慣れていないせいなのか。
 短い裾が少しスカートにかぶさる白いオーバーブラウスは、襟や裾に黒いラインがあって、首まわりはややシャープだが、大きめの襟と淡い褐色のボタンが印象を和らげている。左ポケットに校章の刺繍がある胸部もまろやかな曲線を描いて、鏡の中の少女の身体を優しく彩っている。膝上五センチから十センチほどの丈のチェックのプリーツスカートも、華奢なウエストからふわりと柔らかなシルエットで、十代の女の子らしさを明るく引き立てている。そんなブラウスとスカートから伸びるしなやかな手足も、ほっそりとした首の透き通るような白さも、十七歳の少女の健康的な清潔感に溢れている。
 初瀬は不安定に揺れる感情を押し隠して、鏡の中のまだ慣れない容姿のそんな「自分」を見やって、『我ながら美人でよく似合っているぜ』と自画自賛する。鏡の前でニカッと笑顔を作って、鏡の中でにっこりと笑うロングヘアのきれいな少女に向かって、笑うと明るい愛嬌のある鏡の中の女の子に向かって、初瀬はグッと親指を立ててみる。
 だが、やはり落ち着かない。
 スカートで外に出るのは初めてになるが、膝や太ももが見える長さを選んだのは初瀬自身だし、近年の樟栄高校の女子としては比較的普通の長さで、エリナのスカート丈と同じくらいだから、客観的に言って特別大きな問題はない。中学の時のエリナが時々そうしていたようにスカートの中にスパッツ――火曜日に買っておいた股下十五センチほどの三分丈の薄手のスパッツ――も穿いているから、主観的に言っても半ズボンで駆けずり回っていた子供時代や、暑い日に短パンで過ごすのと似たようなもの、のはずだ。短パンやスパッツであっても、女子のスカートの中がチラ見したりしたら男子連中は気にするとわかっているから、自分がその対象になると思うと気持ち悪いが、初瀬自身がそうだったから偉そうなことは言えないし、もう男にそういう目で見られるのは覚悟している。そんな視線を気にしていたらプールや海水浴にも行けなくなる。
 そもそもスカート以前に、どんな服装であっても、今の初瀬は身体自体が女だ。文字通り自分の身をもって、初瀬は「女性の肉体」のすべてをリアルタイムに体感している。服装一つで人の印象が変わることはよくわかっているが、女装がどうこう言うより先に、スカートは頼りないとかプリーツがさわさわするとか思うより先に、スカートの中の「自分の肉体」への意識の方が大きい。
 だからたかが制服くらい、いまさら気にするようなことではないはずだった。性別や肉体と違って、服装は自分で選ぶことができるから「自己の表現の一部」「自分の選択の表明」「自己主張」という見方もできるが、肉体の問題に比べれば所詮道具でしかないし、初瀬はもう手段として割り切っているつもりだった。
 なのに、開き直っていたつもりなのに、単に着慣れない服を着たというだけのはずなのに、一つ気になると全部気になり始めて、なんだかもやもやした気分になってしまう。
 学校で自然に見慣れている、学校の女子たちが普段当たり前に着用している、今までは見るだけだった女子の制服。
 ついこの間まで男だったのに、女の身体になって、女物の下着を身に着けて、女子の制服を着て、スカートを穿いている今の自分。
 身体をひねって後ろも確認すると、豊かなお尻がスカートに柔らかな丸みを描いているのがわかる。ただでさえ、わざわざ見なくても目をつぶっていても、今の自分の肉体のまろやかさを常時体感しているのに、意識し始めると止まらなくなる。さっきまで手足を撫でまわしていた影響も残っているのか、太ももの半分から下やふくらはぎが常に空気に触れる感触も、変にそわそわする。スカートは股下での引っ掛かりがないから、ウエスト位置も気になって落ち着かない。
 ある程度は予想できていたことだから、スカートの中にスパッツも穿いたが、ふっくらとなだらかな下腹部と柔らかいお尻や太ももを包み込む、初めてのスパッツのフィット感も妙に気になる。これも軽くて通気性が売りのものを選んだのだが、穿いていない状態とははっきりと違う。スパッツの中のショーツの感触まで変にくっきりと感じて、足をちょっと動かすだけでも、下着の中の自然なうごめきまでも意識してしまう。
 正面の鏡をじっと凝視すると、胸部が内側からまろやかに膨らんでいるブラウスに、微かに透けて見えそうなスポーツブラのライン。白い服に白い下着は意外に透けやすいという発想は、今の初瀬にはない。ブラウスを内側から押し上げているその部分が極端に目立つ気がして、なのにそれ以外の部分がやけに華奢なのも気になって、ブラウスの中の下着の柔らかい締め付けの感触や、その下着に包まれて息づいているふくらみの生々しい質感までも、強く意識してしまう。
 慣れの問題も大きいのだろうが、それはつまり、時間や経験によらない解決が難しいということでもある。「今の自分の身体」の「女性の肉体」自体には、初瀬は毎日のように人に言えないことをしているせいもあってか少しずつ慣れてきているつもりだが、状況によってはまた強く感情を揺さぶられる。一歩間違うと簡単に自分で自分の身体にむらむらうずうずしてしまう。
 『……みあもエリナも、少しは、こんな気分になるのかな……』
 一瞬、二人の半裸が初瀬の脳裏に浮かびかけて、同時に、四年前の春の光景が、初瀬の心に広がった。
 中学に入学した四年前の春、真新しいセーラー服姿で、はにかみつつも自慢げににこにこしていた美朝と、初瀬とあまり目を合わせようとしなかったエリナ。二人ともおろしたての制服で新一年生らしさいっぱいで、セミロングの髪に細いリボンをつけていた美朝は、成長を見込んでかなりゆとりのある制服で。ナチュラルなロングヘアのエリナは、比較的適正サイズの制服だったが、どこか背伸びをしているような雰囲気がにじんでいた。
 女子の平均より成長が遅めで、今よりもずっと幼かった美朝と、美朝よりも十数センチ背が高くて、いつも大人ぶっていたエリナ。そして、成長期が来てエリナの身長を追い越したばかりだった、詰襟の学ラン姿の男の子の初瀬。
 初瀬が素直に二人を褒めると、美朝は照れながらも無邪気に嬉しそうに笑って、同じようにぶかぶかの初瀬の制服姿を褒め返してくれて。エリナも少しぶっきらぼうだったが、目のふちをほんのりと赤く染めて、「馬子にも衣装よね」と、ありきたりな言葉でいじわるく論評してくれた。
 その日の思い出は、三人のアルバムと心の中に、しっかりと残っている。
 「……それとは、状況が違いすぎだよな……」
 初瀬は華奢な声で小さく呟いて、意識して肩の力を抜いて、クローゼットをパタンと閉めた。
 三人で過ごしてきたそれぞれの季節を思いながら、初瀬は新品の白いロークルーソックスを手に取って、ベッドに腰を下ろす。胸の痛みを押し殺して、スカートを乱して太ももを胸に引き付けて、小さな足の先から両手で靴下を履いていく。
 女として生まれて、そのまま女子として学生生活を送っている美朝たちと、男として生まれて男として育ってきたのに、女になった初瀬。今日これから初めて、一年間男子として通っていた学校の女子の制服を着て、女の身体で、女子生徒として学校に通う初瀬。
 生まれつきの女性は、今の初瀬の気持ちを、おそらく一生理解できないだろう。そして、初瀬が生まれつきの女性の気持ちを理解することも、一生ないかもしれない。
 現状に対する後ろ向きな反発と、現実に対する前向きな諦観と。男だった自分の元の身体への未練と執着と、女になった今の自分の身体への不満と抵抗と欲望と開き直りと。
 いくつもの矛盾する感情が複雑に共棲するが、それらすべてひっくるめて、初瀬は初瀬で。
 どうせ初瀬は、昔も今もこれからも、初瀬以外の何者にもなれない。
 迷いながらでも矛盾しながらでも、初瀬は初瀬なりに動くしかない。
 「おしっ」
 靴下を履き終えると、初瀬は深く考えるのをやめて、強引に気持ちを入れ替えるように、勢いよく立ち上がった。これから学校に行くというのに、朝から鬱屈したり変ないやらしい気分になっている場合ではない。
 最後に、スカートと揃いのチェックのベスト――初瀬も薄々意識していたが身体のラインをナチュラルに少しごまかせる一枚――を着て、手早くボタンをはめて。
 携帯やハンカチなどをスカートのポケットに入れて、学校標準指定のバックパックを持って、初瀬はベッドにパジャマを脱ぎ散らかしたまま、二束の長い髪とスカートを翻して部屋を出た。
 初瀬はいつも通り、軽く肩の力を抜いて、シャンと背筋を伸ばして、まっすぐ前を向いて、堂々と胸を張る。
 ――そうすると胸のふくらみが目立ってしまう気がして、その部分の張りのある柔らかな重みを強く意識してしまって、連鎖的に、ひらひらと足にまとわりつきそうなプリーツスカートの感触やその奥のデリケートな部分の感触まではっきりと意識してしまって、初瀬はまた一瞬モヤっとしたが、「自意識過剰」「堂々としてた方が目立たない」「目立つなら目立つでその時はその時」とすぐに開き直る。
 今の初瀬は、今の自分の肉体に欲情することも少なくないが、まだ反発もあるし日常生活では邪魔なだけだし、強い鬱陶しさも覚える。寝る時にさわったりするのは気持ちいいし、ガールフレンドに押し付けるのもさわられるのも気持ちよかったが、四六時中意識していたら精神的にも無駄に疲れる。
 初瀬は姿勢も気持ちも前向きにして、一歩ずつ階段を下りた。



   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 「はよー」
 テレビの音が控えめに広がっている、高槻家の朝のダイニング。
 初瀬が挨拶をして中に入ると、キッチンに立ってお味噌汁を作っていた母親の高槻香澄が振り向いて、穏やかな微笑とともに「おはよう」と挨拶を返してくる。まだ寝巻きのまま新聞を読んでいた父親の高槻雅彦は、顔を上げて「娘になった息子」のスカートの制服姿を見て、一瞬停止した後、ニヤニヤ笑った。
 「おー、似合ってるじゃないか」
 「まあな、もとがいいからな」
 食卓で父親の向かいの椅子に座りながら、初瀬はきれいな容姿や高く澄んだ声とはミスマッチな口調で、軽く雑に言い返す。
 ただでさえ今の初瀬は、結局まだ制服や下着や肉体が気になっているし、これから会うガールフレンドへの対応の悩みもある。家族に対する態度はかなりぞんざいだった。
 「おふくろ、めしー」
 「あ、もうお兄ちゃんも来るから、ちょっとだけ待って……」
 すでに次男――娘になった今は長女――のために動いていた母親は、返事をしながら子供たちの専用のマグカップを取り出した。夫と子供の会話に耳を傾けながら、冷蔵庫を開けて、長男と長女のためにいつも通り牛乳を用意する。
 「うーむ、なんでこんなにひねくれちまったんだろうなぁ。昔はまだ無邪気で可愛かったのに、からかいがいもありゃしない」
 今年五十一歳の初瀬の父親は、二ヶ月前の初瀬と同じくらい背が高く、なかなか渋い容貌なのだが、性格は陽気で結構軽い。
 彼も最初は「娘になる息子」のことを思い悩んでいたようなのだが、本人が開き直っているのを見て開き直ることにしたらしい。退院直後には「中身が初瀬なのがアレだが、娘がいるっていうのもやっぱりいいもんだなぁ」などとのたまってくれていた。初瀬は時々うんざりするが、良くも悪くも以前通りの父親の態度で、初瀬も以前通りマイペースに父親に応じていた。
 「せめて口が悪くなければなぁ。こんなことになるんなら、口の悪さだけは矯正しとくべきだったぜ」
 「親父にだけは言われたくねー」
 「はっはっは。だが慣れてくると、その口の悪さも可愛くていいかもしれんな」
 「…………」
 何も事情を知らないものにとっては、きれいな容姿と声の女の子なのに、男の子的な性格と言葉遣い。初瀬をよく知るものにとっては、性格や言動は初瀬なのに、見た目も声もきれいな女の子。
 元の初瀬をよく知っていればいるほど、最初は違和感が強烈に付き纏うが、これが「今の初瀬」なのだから、一度受け入れてしまえばこれはこれで自然だった。そう感じ取っているらしい父親は、ぶすっと可愛い表情になった「娘」を見やって、またからからと笑った。
 「無理に矯正するより、この方が初瀬らしいもんな。まあ、たまには、その可愛くなった声でパパとか呼んでもらいたいけどな?」
 「だれが呼ぶかよ。だいたい、みあのおとーさんじゃあるまいし、親父はパパなんてガラじゃないだろ」
 「お、もっかい言ってくれ」
 「――なんだよ、変態親父」
 「うわーい。母さん、おれはどこで初瀬の教育を間違ったのかねぇ?」
 「そうね……、あなたに似ただけじゃないかしら……?」
 母親は小さく笑いながら、子供たちの席にマグカップを置く。
 「おお、なるほど」
 「どこがだよ、全然似てねーよ」
 ニヤニヤ笑う父に、むっとして反抗する娘、くすくすとご飯の用意をする母。
 父と娘がさらにあーだこーだ言い合っていると、家族で一番背が高い長男、スーツ姿の高槻綾人もやってきた。
 「おはよう」
 妹になった弟の女子の制服姿に動揺することなく挨拶をする長男に、母親は微笑んで同じ言葉を返し、父親も「おう、おはよう」と応じる。
 牛乳をコクコクと飲み干した長女も、白くなった唇を指の甲側でぬぐって、横に腰掛ける八つ年上の兄に朝の挨拶をした。
 「はよーっす。兄貴はいつもこのくらいなん?」
 社会人三年目の長男は、家族で一番早く家を出る。普段なら、初瀬が着替えて降りてくる頃には、もう家にいないことが多い。
 「ああ」
 「初瀬もいつもこのくらいに起きたらどーだ? そしたらもっと余裕を持って行けるのに」
 「そう言う親父がもっと早く行けよ」
 「おれは余裕だからいいんだよ」
 初瀬の父親が勤めている会社はフレックスタイム制で、基本的に十時までに行けばいいらしい。その分帰りが遅いこともしょっちゅうだが、初瀬から見ると朝の父親はいつも余裕綽々だった。
 ちなみに実際は、妻が先に家を出るから彼が朝食の後片付けや洗濯物の処理――晴れている日は息子の部屋に堂々と無断進入してベランダに洗濯物を干したり――などをやることも多く、初瀬の想像ほどのんびりしているわけではない。初瀬がもう少し大人になれば、二人の子供を持つ共働き夫婦の大変さを少しは理解するのかもしれないが、今の初瀬はまだ両親のありがたみを理解できていなかった。
 「みあちゃんたちを待たせてるんだろう? あんまり女の子を待たせるもんじゃないぞ?」
 「遅刻するようなら、あいつらもおれを置いてくからいいんだよ」
 初瀬はガールフレンドの佐藤美朝と春日井エリナの二人と、いつもバス停で待ち合わせしている。今日については、バス停までの道が一部重なるエリナとは、バス停よりも前で待ち合わせしていた。
 「だいたい、おれは待ち合わせに遅れたことはないしな」
 軽く笑って、初瀬はきれいな声で偉そうに言う。
 今回の件でだいぶ欠席はしているが、いつも定刻より十五分は早く学校に着くようにしているから、初瀬は今のところ病気以外では無遅刻記録を更新中だ。基本的に、初瀬は学校が嫌いではない。勉強は嫌いだが。
 「たまに寝坊して朝飯かっこんで走ってくだけってか?」
 「だめよ、初瀬、ご飯はゆっくり食べないと……」
 からかうように笑う父親の言葉を受けて、母親が家族にお茶と食事を配りながら、控えめに言葉を付け足す。
 隣でいただきますを言って食べ始めた兄をよそに、初瀬は母親にまで言われてむっとして言い返した。
 「なんだよ、そんなのほんとにたまにじゃんか」
 「つまらんよなぁ。せっかく娘になったんだから、大好きなパパのために、早起きしてお弁当とか作ってみないか?」
 「親父さっきからしつこいぞ」
 「はっはっは。照れるな照れるな」
 「全然照れてねーよ」
 初瀬の父親は、息子が娘になったことを、ネガティブに捉えているのではなくポジティブに捉えている。と言えば聞こえはいいが、今朝の父親はちょっと調子に乗りすぎだった。くだらないネタを引きずる父親に、初瀬の目が本気で冷たくなった。
 いつもなら、父親が起きてくるのは普段の初瀬と同じくらいの時間で、もっとだらしなくて眠たげなのだが、今朝は口数が多い。父親としては、わざと極端に振る舞うことで「目の前の可愛い高校生のお嬢さん」が「長年一緒に暮らしてきた自分の息子」だと、前向きに受け入れようとしている部分もあるのかもしれないが、そんなふうに変に「娘」を強調されるのは、初瀬としては気持ちよくない。
 「おまえもノリノリで女の子やってるみたいだからな。付き合ってみたんだが、はずしたか?」
 「はずしすぎ。無理に娘扱いなんてするなよ、気持ち悪い。おれがおれなのはなんも変わってないんだから」
 「いやいや、無理だから。女になったってだけならまだしも、見た目も声も変わりすぎなんだよなぁ。なあ、母さん?」
 「……ええ。少し、困るわね……」
 また母親にまで言われて、初瀬はぶすっとした表情になって、お箸を手に取った。
 「いただきますっ」
 父親が人をからかうようなことを言うのは日常ごとだが、初瀬はなんだか胸がもやもやして、苛立ちに似た感情を覚える。今となっては「女扱い」するなとは言わないが、初瀬は初瀬なのだ。家族が自分を「初瀬扱い」してくれないのはイヤだった。
 そんな初瀬の態度に、父親は何か言いかけた後に、新聞を置いた。
 彼は、家族で一番年下の、ついこの間まで男の子だった末っ子をまっすぐに見つめて、心持ち真面目な顔になる。
 「まあ、この際だから一つ言っとくか」
 「……あんだよ?」
 初瀬はお箸を持ったまま少し子供っぽく不満げに、今の自分より二十センチ以上背が高い父親を見上げる。先日までなら身長も追い越しかけていただけに、母親にも負けて小中学生に戻ったかのようなこの身長差もかなり悔しい。
 そんな二人の様子を、隣で黙々とご飯を食べる兄と、兄の向かいの席に座った母親も、横からそっとうかがっていた。
 「なあ、初瀬。これでもおれたちも戸惑ってるわけだよ。娘も欲しかったけど、こんな形でとは思ってなかったしなぁ」
 息子で、次男坊で、長男の弟で、成長して大人の男に近づいても、家族にとってはいつまでたっても末っ子の男の子だった初瀬。
 十七年間培われてきた、家族の中にある「初瀬」という存在のイメージ。
 それが根底から揺さぶられている今の状況。
 「初瀬は初瀬だってわかってるんだけどな。ただやっぱり、見た目も声もこうまでいっぺんに変わっちまうと、簡単にはいかんのさ。今まで通りっつーのも厳しいもんがあるし、まさか自分の子供にセクハラするわけにもいかんし」
 「あなた」
 「はは、冗談だって」
 妻の声に軽く笑って、父親は小さく肩をすくめる。
 「初瀬がいつも通りだから、正直こっちはだいぶ助かってるよ。我ながら情けないけど、おれがおまえの立場だったら耐えられないかもしれん。初瀬はえらいよ。本当によくがんばってる。さすがはおれの息子だな」
 少し冗談めかしながらも、優しい表情で、父親は初瀬を見つめる。
 あまりにもまっすぐな父親の瞳に、初瀬はトクンと身体を震わせて、とっさに何も言い返せず、お箸をぎゅっと握りしめて、急に落ち着かなくなって視線が泳いだ。
 そんな「娘」の幼いような表情に、父親は一瞬少し困ったように、またすぐに冗談混じりに笑う。
 「もう十年ばかしおまえがチビなら、なんも考えんでよかったんだろうけどなぁ。父親としては、年頃のお嬢さんになっちまった息子に、どう接したものやら悩むわけだ。これまで通り息子として扱おうにも、今はやっぱ娘になっちまったわけだからな。それはもうどうしようもないことだし」
 「…………」
 「まあ、なんだ。おまえも娘扱いされても戸惑うんだろうけど、おれも娘扱いはどうやりゃいいのかわからん。つーわけでさ、気長に行こうぜ! それが家族ってゆーもんだ。なあ、母さん?」
 父親の視点では、「十七歳の息子が突然娘になった」ということは、同時に「自分がいきなり十七歳の娘の父親になった」「自分にいきなり十七歳の娘ができた」ということでもある。
 最後はどこか少し照れくさそうに早口でまとめて、父親はニカッと陽気な男臭い笑みを浮かべて、妻に同意を求めた。
 「ええ……、そうね。初瀬も、もっとお母さんたちを頼ってね……?」
 母親も、少し心配げながらも、優しい微笑みを我が子に向ける。
 ――初瀬の性別が変わってしまったことは、家族全員にとって軽くはない。だがそれは初瀬だけの問題ではなく、父親だけの問題でもなく、家族みんなの問題。だからみんなで解決していけばいい――。
 父親と母親がそう言っている気がして、初瀬はカッと顔が火照った。
 胸に強い羞恥が湧き上がってくる。
 両親の視線をやけにあったかく感じて、初瀬はなんだかいてもたってもいられなくなって、桃色に上気した顔ごと露骨に目をそらした。無意識にいつもの癖で、お箸を持ってない方の手で首の肌を引っ張るようにつまむ。
 と、優しく笑っている兄と目が合った。
 初瀬はすぐに反対側にそっぽを向いたが、ますます頬が熱くなる。
 初瀬は華奢な繊細な声で、ぼそっと言い返した。
 「別に、息子でも娘でも最初から一緒だろ。おれはおれなんだから」
 「お、じゃあまた今度一緒に風呂でも入ってみるか?」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 なんだか色々と台無しだった。
 物事には状況をわきまえた言動というものがある。
 もしかしたら父親は半分大真面目で、先日の家族旅行の時のように家族全員でというつもりだったのかもしれないが、初瀬は冷たい瞳すら向けなかった。まだ頬を火照らせたままながらも、ため息もつかずに、黙殺するように表情を消して、もう黙ってご飯に手を伸ばす。
 ここで母親が椅子から立ち上がった。
 「あなた、ちょっと……」
 「ん、あんだよ」
 「いいから」
 「お、おい、まだ飯が」
 「後でだいじょうぶ」
 母親は夫の腕を取って、リビングに引っ張っていく。
 いつもは控えめな母親だが、それは家族の力関係で劣勢であることとイコールではない。初瀬は微妙に黒いオーラを帯びているような母親を見送って、気を取り直してご飯を食べた。
 リビングの方では、「あなた、初瀬は強がってるけど、まだ一ヶ月もたってないんだから……」と母親が父親を咎めていたが、初瀬の位置ではよく聞きとれない。父親は「半分冗談だって」「あれくらい言った方が初瀬も遠慮なく言い返せるだろ」「親子の軽いコミュニケーションだ」などなどと言い返しているようだが、妻に押され気味だった。
 父親の声は丸聞こえだったが、母親の控えめな声はよく聞こえない。だから「もう初瀬は女の子なのだから、男親のあなたはあまりでしゃばらないで、わたしたちに任せて」という母親の言葉は、初瀬の耳には届かなかった。「いやいや、男同士の方がなにかと都合がいい部分もあるだろう?」という父親の反論に、「今はわたしと女同士よ。それに、みあちゃんとエリナちゃんにもお願いしてありますから」と母親は答えていたが、その言葉も届かない。「だからってさぁ」となおも父親は言い募っていたが、すべて妻に封殺されていた。
 「初瀬」
 初瀬が両親の会話に聞き耳を立てていると、静かにご飯を食べていた兄が声をかけてきた。
 「うん?」
 「そんなに気にするなよ。初瀬は初瀬の好きにすればいいさ」
 「……そんなの、にーちゃんに言われるまでもないよ」
 「ああ。でも、他人にはあんまり迷惑をかけないようにな」
 「釘刺すのはやっ」
 初瀬は高い声でちょっと笑って言い返す。スーツがよく似合う兄も、軽く笑って頷いた。
 「父さんもあれでも初瀬を心配してるんだから、あんまり邪険にするなよ」
 「つーかさ、娘が欲しかったとかほざくのって、子供をなめすぎじゃね? 男のおれはいらないとか、人格はどうでもいいとか言ってるよーなもんじゃん」
 「そうでも言ってないと、納得しがたいものもあるんだろ。むしろそうやって自分を納得させようとしてるんじゃないかな」
 「そんなの親の勝手じゃん。一番きついのはおれなのに、少しは気を遣えっつーの」
 「そうかな? 変に気を遣ったら遣ったで、初瀬は嫌がるんじゃないか?」
 「――それはっ」
 「……それは?」
 「……むぅ……」
 「はは、父さんも充分考えてるはずだよ。男じゃない初瀬は初瀬じゃないとか言われるよりは、ずっとましだろ?」
 ここで横から「そうだぞ」と、戻ってきた父親が割り込んできた。
 「息子もいいけど、娘でも大歓迎なだけだぞ。息子でも娘でも、綾人と初瀬がおれと香澄の大切な子供であることには変わりないからな。後はもっと素直にパパに甘えてくれれば文句ないんだが」
 「――親父マジでいい加減きしょいぞ。おれはおれだっつーの」
 さらりと大切だなんて言う父親に、初瀬は羞恥心も刺激されて、意地を張って反発する。父親が「娘」という生物にどんな幻想を抱いているのかは知らないが、初瀬は初瀬なのだ。初瀬にそういうことを求める発想自体が、初瀬はイヤだ。
 「なんてやつだ。おまえは男だったくせに、男のロマンがわからんのか?」
 「あなた、早く食べないと、冷めるわ」
 一人力説する父親をよそに、椅子に腰掛けた母親は、意外に冷静に言う。兄は苦笑していたが、初瀬は胡散臭そうに父親を見やった。
 男のロマン、というよりも、この父親だけのロマンなのではないだろうか。少なくとも今の初瀬には理解できないロマンだった。
 「なんだよ、要するにさ」
 とはいえ、なんだかんだで、初瀬の発想は父親とよく似ている。初瀬はお箸を持ったまま、一瞬の閃きのままに、器用に表情を作った。
 制服のふくよかな胸の前で両手を握りしめて、ちょっとうつむきがちになって、はにかむように微笑んで。
 「パパ、いつもありがとう……」
 艶やかな桜色の唇をほころばせて、初瀬はまっすぐに言葉を紡ぐ。
 上目遣いで父親の瞳を見つめて、まつげを甘く震わせて、繊細に澄んだ可憐な声で。
 「パパのこと、大好きだよ」
 数瞬そっと目を伏せて、すぐに顔を上げて、初瀬はにっこりと微笑む。
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 ここで頬がピンク色に上気していれば完璧だが、さすがに初瀬も顔色までは操れない。
 思わず絶句する父親に、初瀬はすぐにイヤそうに表情を崩した。
 「とかやってほしいだけだろ? そんなのおれに求めるんじゃねー」
 高いきれいな声はそのままに、初瀬は雑な言葉遣いでぞんざいに言い捨てる。
 「は、初瀬が壊れた……」
 そんな初瀬に、父親が愕然として呟いた。
 「な、壊れたとかゆーな! なんだよ、親父がやらせたかったんだろ」
 「いや、本当にやられると、心臓に悪いと言うか、うちの初瀬はどこに行ったんだっつーか、すまんおれが悪かった」
 狼狽から立ち直った父親は、両手をテーブルについて、真顔で頭を下げてきた。
 「っ……」
 軽い嫌味くらいのつもりだった初瀬の方が、これには怯んだ。数秒言葉をなくす。
 ちなみに横では、兄が無言で鳥肌を立てていた。初瀬は父親を非難していたが、兄に言わせれば、平気でそういうことをする「弟」も父親の同類だった。今の初瀬は外見的にはきれいな女の子だから、そんな態度も可愛く似合うが、家族の認識とのギャップが激しい分、初瀬の方がよりたちが悪い。
 どこまで本気だったのか、父親はすぐに、もういつもの陽気な笑顔で頭を上げた。
 「いやー、初瀬が初瀬じゃなくなったらおれもダメだわ。よくわかったぜ」
 「じょ、冗談でやっただけだろ。なにマジにとってるんだよ」
 「いや強烈だったから。今のおまえは見た目も声もアレだからなぁ」
 半分娘扱いしようとしていたくせに、いざ初瀬が「娘」として容姿に見合った振る舞いをすると、「初瀬」とは違いすぎて「初瀬」と思えなくなって、父親の方も怯むということなのだろうか。初瀬のように「きしょい」「イヤだ」とまで思わなくとも、初瀬がそんな態度を取ると、この父親なりに複雑であるらしい。
 家族のそんな心理がよくわからない初瀬は、またむっとして父親を見返したが、ここで母親が口を挟んできた。
 「初瀬も、お父さんと遊んでないで、早く食べないと遅れるわよ……?」
 「っ、わかってるよっ」
 ぶすっとした顔のまま、初瀬は朝食を再開する。
 父親は『そういう表情には少しは面影があるけど、可愛いお嬢さんすぎて前とは違いすぎるからまた厄介だよなぁ』と思ったようだが、口には出さない。内心彼も複雑に、だが顔は軽く笑って、お箸を手に取った。
 「いただきます」
 「はい、いただきます」
 母親もやんわりとした表情で言って、ご飯を食べ始める。
 「で、体調はもういいのか?」
 ご飯を食べながら、父親は何事もなかったかのように、新しい話題をふってきた。初瀬はちらりと父親を見て、高く澄んだ声で平坦な口調で言葉を返す。
 「ふつー。昼には眠だるくなる気がするけどな」
 「運動制限は来週いっぱいなんだろ? 無理はするんじゃないぞ」
 「わかってるよ」
 「本当に、無理はしないでね……。つらかったら、早退してもいいから」
 「おふくろが今日から行けって言ったくせに」
 会話に参加してきた母親に初瀬が言い返すと、即座に父親の反論が飛んできた。
 「それとこれとは別だろう。元は来週からの予定だったんだし、今週はリハビリの続きで構わんからな」
 「はいはい。もたなかったら保健室で寝て過ごすよ」
 「だからって、なんともないのに、休んだらだめよ……?」
 「はいはい」
 うっさいなぁもう、と言いたげに、初瀬はぞんざいに両親に応じる。
 そんな我が子を、母親は困ったような顔で見るが、初瀬のそんな態度はいつものことだ。ある意味、「家族」に無自覚に甘えている「子供」の態度。初瀬は別に家族が嫌いではないが、世の多くの子供の常で、親の干渉を嫌う。
 さらに父親が口出ししてきて、またあーだこーだ言い合ううちに、黙々と食事を終えた兄が「ごちそうさま」と立ち上がる。すぐに家を出る長男と家族が声を掛け合って、兄は最後に「初瀬、みあちゃんたちと仲良くな」と妹になった弟に優しい瞳を向けて、初瀬は「ん」と小さく、素直に頷いて、兄をいってらっしゃいと見送った。
 普段より口数が多い父親は、わざわざ早起きしたのも我が子を想ってのことで、真剣に初瀬を心配していたのだが、初瀬はそんな父親の気持ちに気付きもしなかった。母親は露骨に心配そうな顔だったが、母親のそれはよくあることだから、こちらも初瀬は気にしない。
 親の心子知らず。とも言えるが、半分くらいは、父親の日頃の行いにも原因があるかもしれない。
 さらに色々言う両親を適当にあしらって、初瀬はご飯を食べ終えるとお茶を飲み干して、もうこれから会うガールフレンドたちのことばかり考えながら席を立った。
 「ごちそうさまっ。いってきますっ」
 一度洗面所に向かって、歯磨きをして、唇に薄くリップスティックをすべらせて。
 もろもろ準備をすませると、初瀬は約一年間使い古しの男女兼用のバックパックを背負って、玄関でおろしたてのローファーを履いて、わざわざ見送りに来た両親に、大きな声でもう一度いってきますを言って、元気よく学校へと出発した。
 朝から気温は少し高めだが、外は久しぶりの青空だった。ここ数日断続的に降り続けた雨も一休みといったところなのか、眩しい太陽の光が地上を照らしていた。








 to be concluded. 

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初稿 2012/03/10
更新 2014/09/15