ガールフレンド
Taika Yamani.
第六話 「コミュニケーション」
I
六月二十日、火曜日。雨が降ったり止んだりと、今日も朝から梅雨らしい一日。
男として生まれて十七年間男の身体で生きてきて、つい先日TS病で女の身体になった高槻初瀬は、いつも通り長い髪を黒いヘアゴムで二つに結んで、ガールフレンドに借りたユニセックスなパンツスタイルで、この日仕事を休んだ母親と自家用車で買い物に出かけた。
目的は、学校の制服と、実用的な靴や服や下着と、多少の日用品である。
その日用品の中には、男のままなら一生無縁だったはずのものも交じっていて、さすがに初瀬も少し遠い目をしたくなった。が、基本的にはもう前向きに開き直っていた。
初瀬は小学校時代に、成長の早かった同級生の女の子が持つ変なポーチに興味を抱いて、軽い気持ちで奪い取って泣かれたことがあるが、中学時代には、その女の子から二人きりであれこれ学んだりもしている。その経験の分も、初瀬は女性の身体のしくみが少しはわかっているつもりだった。
そうでなくとも、ただでさえ今の初瀬には、女性の身体のあの部分やこの部分――どころか女性のカラダのすべて――が、生身の状態で存在しているのだ。今の自分の身体の色々な部分を指でいじりまわしたり鏡でじっくり観察した時の感慨に比べれば、服や下着同様、生理用品は単なる道具だった。
今の初瀬の身体は十七歳の健康な女性だから、遠からず、TS病後の平均並なら来月中には、ソレを体験することになる。いざ初潮を迎えればまた様々な感情にさらされるとわかりきっているから、初瀬は深く考えると鬱になりそうだが、現実的にそう予測できる以上、前もって覚悟を決めて準備をしておくに越したことはない。冷静に考えると、そこいらの女子小中学生だって当たり前に受け止めていることなのだ。考え方によっては、そんな年下の女の子たちが受け止めていることを受け止めきれないことの方が、男子高校生として逆に情けなくてカッコ悪いという見方もできる。
さすがに買い物の序盤は頬が勝手に熱を帯びたが、開き直って行動するうちに羞恥や動揺は収まる。この手のことは変に恥ずかしがる方が余計に恥ずかしい。なんとなく初めてコンドームを買った時の緊張が思い浮かんでしまったが、その時と比べるとマシなのかそうではないのか、そもそも比べていいものなのかどうか。一年後にはなんとも思わなくなっていたから、生理用品を買うのもそのうち慣れていくのだろうか。
初瀬は無駄にどうでもいいようなことを考えて、母親にアドバイスをもらったりしながら、堂々と商品を手に取ってパッケージを眺めて、ナプキンやタンポンやオリモノシート、ポーチやポケット付きハンカチのようなナプキン入れなども、あれこれ検分してまわった。心の中では理不尽な情けなさや鬱屈もくすぶったが、初瀬は強引に前向きに、今の自分の身体に向き合う。やや現実逃避気味な要素もあったかもしれないが、『みあとエリナはどこのメーカーのどれを使ってるんだろ?』などと、男のままであればセクハラになりそうなことも考えたりもしつつ、初瀬はとりあえずお試し感覚で購入するものを決定していった。
母娘二人、レストランで少し遅めの昼食を取る前後に、靴や服や下着の売り場もまわったが、初瀬はもうガールフレンドと約束をしているから、実用性重視の補充ですませる。ちょうど午前中や昼食時に彼女とメールを交わして話題に出たが――今日のことを書いたら、わたしも行きたかったとか今度は絶対一緒に行こうねとか、不満や笑顔を表す絵文字とともに色々な返事が降ってきた――、ファッション性の高いものは後日改めて彼女と一緒に選ぶ予定だった。
そのかわりに、というわけではないが、誕生日が近い彼女への贈り物を、母親にも相談して探してみたりした。所々の店員さんは、母親のことを「おふくろ」と呼ぶ口の悪い「きれいなお嬢さん」に、余計なお世話を焼きたがりそうにしていたが、初瀬は鬱陶しい相手にはその気持ちを隠さずに応対して、マイペースでやり過ごした。
学用品は、女子用の夏冬の制服にポロシャツに体操服に、上履きや体育館シューズなどに加えて、水泳の季節だから、学校標準指定の濃紺色の水着も買っておく。初瀬は抵抗を感じつつも、真面目な顔の母親に促されるまましっかりと試着もして、男子用とは違うワンピースの水着のぴっちりした着こなしや微妙な締め付け感に頬を熱くしながら鏡に向き直って、女子のスクール水着が似合う自分に、また色々な気持ちを抱いたりした。
そんな買い物の途中で、初瀬は母親から改めて登校の話を切り出された。
初瀬は今週一杯はぐうたら休むつもりだったのだが、母親としては「娘になった息子」の勉強の遅れも気になるらしい。控えめな態度でそんなことを言う母親を、初瀬はちょっと邪険にしつつも、無視はしなかった。昨夜話題になった時にある程度結論は出していたし、思っていたより体調的にも問題はなさそうだったから、明後日の木曜日から登校、という方向で決定する。
そんなこんなで、家に帰ってきたのは午後三時前。
この後ガールフレンドの佐藤美朝が遊びに来る予定になっているが、今週の美朝は掃除当番らしく、四時くらいまで余裕がある。子供の登校の件をさっそく学校に電話する母親をよそに、初瀬はしばし自分の部屋でのんびりと過ごした。
上着を脱いで、中学時代の明るい藍色の半袖オープンシャツと美朝に借りたレディースの灰白色のロングパンツ姿になって、眠だるさを感じつつ買ってきた荷物の整理をしたり、気まぐれで美朝のオススメの髪型にしてみたり――位置をずらして結び直して左右の肩から前に流しただけだが――、携帯をいじったりして、彼女の到着を待った。
が、三時半前に、美朝からメールがふってきた。
「おふくろー、みあのやつ少し遅れるってさ」
「あら……」
美朝が遊びに来ることは、昨日のうちから母親にも伝えてある。初瀬の母親は「女の子になった次男」が「ご近所に住む幼なじみのみあちゃんとエリナちゃん」に心配をかけていることをしっかりと知っていて、さっきも帰りにケーキを買ってきたばかりだ。美朝たちに初瀬のTS病を告げたのも彼女で、初瀬の知らないところで色々と話をしたりもしている。
「どのくらい、遅れるのかしら……?」
「少しってあるし、そんな遅くないんじゃね」
「そう……。エリナちゃんも来るか、聞いてみた……?」
「まだわからんー」
いつも控えめな母親と雑談を交えながら、初瀬は『はよ来い』と美朝に短い返事を出す。もう一人のガールフレンドの春日井エリナも一緒なのかは、来ればわかることだからいちいち確認は取らない。
美朝の到着は初瀬の予想以上に遅かった。
初瀬たちは基本的にバス通学で、三人が通う樟栄高校までおよそ二十分だ。掃除当番があっても、まっすぐに帰れば四時前には家に着く。美朝は一時間近くもいったいどんな用事があったのか、初瀬の家にやってきたのは五時前だった。
インターホンでの呼び出しに初瀬の母親が応対に出て、自室で落ち着かなく過ごしていた初瀬も、すぐに玄関に向かう。
「みあちゃん、こんにちは。今日も一人なの?」
「あ、うん、一人なの。おかあさんこんにちはっ」
セミロングの髪をナチュラルに肩に流している美朝は、自宅に帰らず直接来たのか学校標準指定の制服姿だった。白黒チェックの膝丈のプリーツスカートと、多少独特なデザインの白い半袖オーバーブラウスに、スカートと揃いのベスト。足元はワンポイントマークの入った白いロークルーソックスと、黒に近い濃褐色のコインローファー。
いつも見慣れている相手なのに、玄関で母親と挨拶を交わすそんな美朝の顔を見たとたん、初瀬は胸を高鳴らせた。
急に、朝に届いていたメールの文字と昨夜の電話の記憶も、羞恥になって湧き上がってくる。初瀬は頬が上気するのを感じながら、今の自分の自然な声で、以前とはまったく違う少女の声で、なんとか態度だけは普段通り、大雑把に言葉を投げた。
「みあ、おせーぞ」
「あ、うん、ごめんね」
珍しい髪型の初瀬に、美朝も少しドキッとしたようだが、この時の初瀬はそれに気付くほど冷静ではなかった。
「とっとと上に行くぞー」
「あ、初瀬……、みあちゃんにケーキ」
「わかってるって。みあ、先におれの部屋に行ってろよ」
「うん。おかあさん、ありがとう」
「ええ、いいのよ。ゆっくりしていってね」
「はい、おじゃまします」
美朝よりも少し背が高い初瀬の母親は、必ずしもずば抜けた美人ではないし今の初瀬にもあまり似ていないが、姿勢がきれいで優しい雰囲気の大人の女性である。基本的にいつも控えめだが、家庭と仕事をうまく両立させている思慮深い女性で、美朝は自分の母親とはタイプが違う初瀬の母親をとても敬愛していた。
初瀬の母親の方も、自分の子供が男の子だけだったこともあって、昔から美朝たちを気に入って可愛がっている。礼儀正しく頭を下げる次男のガールフレンドに、彼女は笑顔を見せてから、我が子の後を追いかけた。
まだ少し頬が赤い初瀬は、美朝のことばかりを考えながら、母親に手伝ってもらってケーキと牛乳を用意した。
本人はほとんど自覚がなかったが、この時の初瀬は、地に足が着いていないかのように、露骨にそわそわとした態度になっていた。
美朝が遊びに来るのなんてありふれた日常ごとなのに、改めて恋人同士という関係になったからか、それとも昨日の言動の影響なのか、胸がふわふわと高揚する。嫌な気持ちではないが、なんだか妙にこっぱずかしい。
ちらちら見つめてくる母親の視線に気付かずに、初瀬はなんとかがんばって気を引き締めて、平常心を装って、お盆を持って自分の部屋に戻った。
先に初瀬の部屋に入った美朝は、ベストを脱いで持っていたスクールバッグと一緒にドア側に置いて、今日は初瀬の定位置であるベッド側で、床の座布団に座って初瀬を待っていた。
「なんでこんな遅かったんだ? なんか学校の用事だったのか?」
中に入ってドアを閉めた初瀬は、中央のテーブルに動きながら意識して無造作に口を開く。
「ううん。――ちょっと、エリナちゃんと話してたの」
テーブルにお盆を置こうとした初瀬の手が、一瞬止まった。
「おれのことか?」
「うん」
それ以外ないよ、と言っているような瞳で、美朝は初瀬をじっと見上げる。
初瀬はその瞳を見ていなかったが、雰囲気で察した。二つのマグカップとフォークと三つのケーキをテーブルの上に置くと、初瀬は一瞬ためらった後、ベッドにもたれかかるように、美朝の横に座り込んだ。
「で? なんの話をしたか、聞いてもいいのか?」
さっきまでとは違う意味でまた少し落ち着かなくて、初瀬は無意識に自分の首の肌を軽くつまむように撫でた。いつもと髪型が違うから、首元から胸に流れている髪に接触し、すぐに手を離す。
美朝とエリナ。親友同士と言えるほど仲のいい二人であり、初瀬をめぐる恋敵と言える関係でもある二人。
初瀬は昨日、二人とも好きだと、もう二人とも恋人だと、二人に対して言い切った。そんな二人が、いったいどういう顔で会って、どういう態度で、どういう会話を交わしたのか。
初瀬としては、知りたいような、知りたくないような、微妙な気持ちだった。美朝とエリナの気持ちを考えると、なんだか胸が痛くなる。初瀬は当然、美朝とエリナの二人には仲良くしてもらって、これからも三人仲良くがいいのだが、それはおそらく男の身勝手な言い分だ。初瀬の気持ちはもう決まりきっているが、美朝とエリナの気持ちを考えると、初瀬は自分がとてもわがままで強欲で、自分の欲望だけを優先するろくでなしに思えてくる。
身体ごと向き直った美朝は、そんな初瀬の態度に、ちょっとだけ笑った。
「初瀬くん、変な遠慮は絶対にしないで」
「別に、遠慮してるつもりはないぞ」
「わたしもエリナちゃんも、変な遠慮とか絶対しないでおこうって、自分の気持ちに正直でいようって、エリナちゃんとそう話したよ」
美朝は微笑みのまま、髪を耳にかけるしぐさをして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だからね、初瀬くんも、わたしが邪魔になったら、エリナちゃんだけが好きになったら、ちゃんとそう言ってね。自分の気持ちをごまかさないでね」
「アホ。おまえが邪魔になるわけないだろ」
初瀬はベッドから背中を離した。簡単に触れ合える距離にいる美朝を、真顔でまっすぐに見返す。
「わたしずるいんだよ」
「……なにが?」
「わたしはね、今、こう言ったの。“もしもわたしだけが好きになったら、エリナちゃんに正直に話してね”って」
「…………」
「わたし、嫌な女でしょ。エリナちゃんのこと、大好きだけど、やっぱり嫌だって思っちゃうの。初瀬くんには、わたしだけ見てほしいって、そう思っちゃうの」
「……そんなの普通だろ。常識はずれなのはおれの方なんだから」
「……うん。初瀬くんひどいよね」
「でも謝らないからな。みあもエリナも絶対離さないって、もう決めたんだ」
初瀬は美朝の目を見つめて、高く澄んだ声で、真剣に言う。
美朝も初瀬から目をそらさず、二人の視線が真っ向から絡み合う。
「……二人でね、初瀬くんの悪口も、いっぱい話したよ」
数秒の沈黙の後、先に表情を緩めたのは美朝だった。
どこか諦めにも似た、だが暗さのない、柔らかな微笑。
「初瀬くんひどいって、二股で女たらしで女の敵だって」
「ぐ」
「女になっても全然変わらなくて、女心もわかってくれなくて、やっぱりすけべで、すぐキスしたがるって」
「すぐキスしたがるのはみあの方じゃんか。いやおれもしたいけどさ」
初瀬は少し焦って、同時に美朝の笑顔に無意識にほっとして、強気で率直に言い返す。
美朝は微かに羞恥の色を浮かべたが、微笑みは消さなかった。
「うん、キスって、どうしてあんなに気持ちいいんだろうね。ただお口を合わせるだけなのにね」
初瀬は一瞬ここ二日の記憶が脳裏に浮かんだが、口に出さずに笑って、頬を甘く緩ませた。
「それは相手がおれだからだな。みあがおれに惚れてる証拠だ」
「……うん」
初瀬は調子に乗って軽口を叩いたが、美朝は初瀬の予想外の反応を見せた。瞳を揺らして、切なげな顔になる。
「昨日エリナちゃんにも、抱きしめてキスして強引に納得させたんだね」
「あー……。うん、まあ、そう、だな」
「――初瀬くんがエリナちゃんとキスしてるの想像すると、わたし胸が苦しい」
「…………」
実際にはキス以上のことをしたのだが、さすがにエリナもそこまでは話していないらしい。話すと過去の関係にも触れるからだろうか。エリナとの身体の関係のことは、初瀬は美朝にはずっと隠し通して、しかも当時は美朝に特別な隠し事をすることを少なからず楽しんで、罪の意識もほとんど持っていなかったが、新しい関係が始まる今は強い後ろめたさを感じた。二股をかけていることも、本人たちに公言しているとはいえ、罪悪感に似た感情が襲ってくる。
「……今日のエリナちゃん、落ち着いた顔してたよ。ずるいくらいきれいだった」
「みあだってきれいだよ」
「うん」
反射的な初瀬の言葉に、美朝は小さく頷いて、「そう言ってくれるって思った」と、素直な笑顔で笑った。
その表情が本当にきれいで、初瀬は見惚れて、一瞬言葉を失った。
「わたしも、エリナちゃんに負けないようにがんばるから」
「別にっ、がんばらなくったって、今のままのおまえで好きだ」
「もっともっと好きになってもらいたいから」
「っ……」
初瀬は感情が溢れて、なんだか急に胸が締め付けられるように熱くなった。目の前の女の子が愛しくてたまらなくなる。感極まって、同時に猛烈に照れくさくなって、美朝を抱きしめて押し倒したくなるような衝動まで湧き上がってくる。
家にだれもいない日だったら、初瀬は止まらなかったかもしれない。
美朝に手を伸ばしかけた初瀬は、胸の熱さに耐え切れなくなって、抑えがきかなくなりそうになって、とっさに露骨に目をそらした。
「ば、ばか、なにこっぱずかしいこと言ってるんだよ」
初瀬は自分の首の肌を指で引っ張るようにつまんで、頬を桃色に染めて視線をさまよわせて、目に入ったフォークを衝動的につかんだ。
「ほら、みあもさっさとケーキ食えよっ。遅くなると晩メシ入らなくなるだろ」
「……初瀬くん、もしかして、照れてる?」
内心キスと抱擁を期待していた美朝は、二度まばたきをして、初瀬の顔を覗き込んだ。
「アホっ。とっとと食えっ」
初瀬は高い声で露骨にぶっきらぼうに怒鳴って、三角形のショコラフレーズを大きく削って、小さな口いっぱいに頬張った。唇にチョコ生クリームがついて、初瀬は親指でクリームをぬぐう。
珍しくはっきりと照れる初瀬に、美朝も頬を甘くほころばせて、うんと素直に頷いた。残り二つのケーキのうち苺のタルトを選んで、美朝は明るくいただきますを言って、初瀬よりも小さくケーキを削って、丁寧に口に運ぶ。
そんな美朝の笑顔に、初瀬は居ても立ってもいられないような気分で、頬に熱を感じながら、だが不快ではない気持ちで、もぐもぐとケーキを飲み込んだ。指先のクリームを舐めて、牛乳を飲む。
「ほんとは、今日もエリナちゃん誘ったんだよ」
美朝は一口目を食べると、今ここにいない親友のために用意されたもう一つのケーキを見て、穏やかに話題を繋ぐ。
「でも、今の初瀬くんの顔見るの、エリナちゃんまだ抵抗あるみたい」
「――あいつは、細かいこと気にしすぎなんだよ」
「全然細かくないことだから、しかたないよ。わたしだって、今の初瀬くん見たら、嫉妬しちゃうし」
「嫉妬って……、それはなんか違わなくね?」
「好きな人が自分よりきれいな女の子になったりしたら、やっぱりショックだよ」
「――おれなんて見た目だけだろ。おまえらの方がきれいだよ」
臆面もなく堂々と何度もそういうことを言う初瀬に、美朝は「ありがと」と、少しはにかむように笑う。
「でも、初瀬くんが女の子になっただけでも、ショックだから」
「それは、わからなくはないけどさ」
「うん、エリナちゃん、メールならあんまり気にならないみたいだから、メールしてあげてね」
「だったらもっと返事は早く出せって言っとけ。内容も短いのばっかだしさ」
「それ初瀬くんもおんなじだよ。返事だって遅いし、いっつも短いメールばっかりで」
「おまえのメールが長すぎなんだよ。だいたいメールじゃなくて電話でいいのに」
「ん……、電話もしたいけど、電話だと止まらなくなっちゃうから。手のかかるわずらわしい女って思われたらヤだし」
――それに、わたしからばっかりしなくても、ちゃんと初瀬くんからもかけてきてくれるから……。
後半は声に出さずに、ちょっと照れて笑って、美朝はケーキを食べる。
初瀬はその笑顔の意味に気付かないまま、美朝がやたらと可愛く見えて、また頬が熱くなって、つい軽く茶化した。
「なにいまさら変なこと気にしてるんだよ。とっくにじゅーぶん、みあは昔から手のかかる女だろ」
「えー、そんなことないよ、わたし普通だよ? 初瀬くんの方が手のかかる子だったよ」
「いやいや、さすがにおまえには負けるから。みあは昔っから甘えん坊だったじゃん。今もすぐ拗ねるし」
「わたしの方が負けるよ。ぜったい初瀬くんの方がわがままだよ」
美朝は不満げにむくれ、初瀬は明るい笑い声をたてた。
「ほら、もう拗ねてるし」
「っ、もうっ。そんなこと言うと、もっと手をかけさせちゃうんだからねっ」
「おう、いくらでも甘えろよ。もう彼氏彼女だからな。おまえのわがままくらい余裕で受け止めてやるよ」
「――ばかっ」
初瀬はさらに楽しげに美朝をからかい、美朝は微かに頬を赤くして、と同時に満面の笑顔になって、初瀬をぶつ真似をした。
ここから先は他愛もない話になった。意図的なのかそうでないのか、美朝はもうエリナの話題を持ち出さなかった。
自分のケーキを食べて、相手のケーキの催促をして。
美朝があーんと差し出してきたケーキを、初瀬はフォークを握る美朝の手をつかんで、食べさせてもらうというよりは、美朝の手を使って食べるという感じで、美朝のフォークを口に含む。嬉しそうにはにかむ美朝に、初瀬もお返しをして、三つ目のケーキも半分こにして、また笑って食べさせあう。
ケーキを食べ終えると、二人ベッドにもたれかかるようにのんびりとくつろいで、どちらからともなく手と手を繋いで、指に指を絡めて、他愛もないおしゃべりに花を咲かせる。
メールでも相談した初デートのことや、今日の初瀬の買い物のこと、明後日から学校に行くということ。初瀬の新しい制服や今日の服装や髪型のことや、先日の基礎化粧品のこと。他にも、初瀬の勉強や今日の学校のことや、美朝が自主的に休みまくっている部活や、初瀬のリハビリのこと。
六時半を過ぎた頃、時間が気になってきたのか、キスをねだってきたのは美朝の方からだった。
初瀬は積極的に応じて、優しいキスを繰り返す。
今日は体育があったからか、美朝は少し体臭を気にするようなしぐさも見せたが、初瀬には甘く魅力的に感じられる美朝の匂い。二人の口内には食べ終えたケーキとミルクの甘ったるさも残っている。
何度もキスを繰り返すうちに、美朝は頬を上気させて、少しおずおずと、舌をさし出してくる。同時に、美朝の片手が、前に流れる初瀬の長い髪をゆっくりと撫でるように辿るように、そっと、初瀬の胸のふくらみに触れた。
「んっ……」
ドキッと身体を震わせた初瀬は、そんな美朝が可愛くて愛おしくて、もっともっと先を求めたくなったが、なんとか克己心を振り絞った。もう彼氏彼女になったのだから急ぐ必要はどこにもない、という自覚はなかったが、焦って進まなくとも、今は美朝との恋人関係が純粋に嬉しくて、楽しさもある。
美朝の身体と自分の身体を感じれば感じるほど、やはりどうしても今の自分の肉体への暗い感情もしつこくくすぶるが、美朝が一途に愛情を伝えてくれるから、初瀬の心も高揚して前向きでいることができた。積極的な美朝の態度に、初瀬の身体も潤んで頬も桃色に染まり、初瀬は太ももを美朝の足の間に割り込ませたりしたくなったが、今日は座ったまま少し深いキスをして、美朝の豊かな同じ部分をさわり返すだけで我慢した。
初瀬のお返しに、美朝も小さく身体を揺らしたが、求める心は止まらない。
「初瀬くん、とくとくしてる……」
美朝の片手が、洋服ごしにそっと包み込むように探るように、初瀬の上半身のふっくらとした部分を撫でる。
微かに身体を震わせた初瀬は、無意識に艶っぽく唇をほころばせて、美朝の手を真似るように、自分の手を優しく動かした。
「みあだって、どきどきしてるじゃん……」
「ぅん……」
手のひらが感じる、相手の着衣や下着の感触と、その内側の質量の弾力的な柔らかさと温かさと。
肩から胸にかけて重みのある自分の乳房が感じる、どこかくすぐったいような、下着ごしのソフトな圧力と、相手の手や指の繊細で優しい動き。
初瀬がちらりと下を見ると、美朝の白い手が初瀬の藍色のシャツのふくよかな隆起を包み込むようにうごめいて、初瀬のたおやかな手も、美朝の制服のブラウスの豊かに盛り上がったまろやかな部分に触れている。
「初瀬くん、だから……」
初瀬の視線を遮るように、美朝は火照った身体ごと、唇を近づけてきた。
手の甲が自然に自分の胸のふくらみにも接触し、もう何度目になるのか、美朝の唇が、初瀬の唇に密着する。
刹那のやるせなさを押し殺して、初瀬は頬を緩ませて、そっと目を閉ざした。
そのまま、初瀬は柔らかな唇を開いて、しっとりと濡れた舌を伸ばす。瞬間、同じように伸ばしかけていた美朝の舌とぶつかり、初瀬は反射的に引っ込もうとする美朝の舌を追いかけて、美朝のそれに自分のそれを絡めた。
美朝の身体が揺れ、初瀬の胸を撫でる手に力が入った。
痛みともくすぐったさとも違う感覚が強まって、初瀬の身体も甘く震える。
まだ洋服と下着ごしなのに、美朝にさわられるのは自分でさわるのとは全然感じが違う。もうずっとさわっていてもらいたくなる。ネガティブな衝動もこみ上げてくるが、もっと強くされてもいいくらいに、甘やかで心地よい感触。
ぎこちなく応じてくる美朝の口唇を味わいながら、初瀬も包み込むように手のひらを動かす。今はただひたむきに相手のことだけを想って、お互いの身体でお互いの心と身体を刺激して刺激されて、夢中になって求め合う。
美朝も初瀬も、呼吸が乱れて、胸も大きく弾んでいく。
「初瀬くんの……、ふかふかで、あったかい……」
長いキスの合間に、二人の唇から熱い吐息がこぼれる。
「……みあのすけべ」
「……ちがうもん。すけべは、初瀬くんだもん」
いつもの自分の言葉を初瀬に言い返されて、美朝はますます頬を上気させたが、手は離れない。
「そういうことにしといてやる……」
衝動でわざとからかった初瀬は、あでやかに笑って、下から瞳を覗き込むように、優しく恋人に口づけをした。
ゆっくりとお互いを求め合う濃厚なキスと、柔らかいスキンシップ。
大好きな人の身体を撫でて抱きしめ合って、ぬくもりを感じ合って。
お互いの香りも胸いっぱいに吸い込んで、潤んだ瞳で見つめ合って、時々ただ名前を呼んで、胸の熱さを堪え切れずに吐息とともに微笑み合って。
何度も唇を重ねて、全身で気持ちを伝え合う。まだ一歩ずつのゆっくりとした進展かもしれないが、初瀬は充分、今はそれで満たされていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日、水曜日の放課後も、美朝は一人で初瀬の家にやってきた。
前日に約束をしていたから、この日はすぐに家を出て、二人で近所のドラッグストアや百円ショップに買い物に行く。
いつも通り長い髪を二つに束ねてメンズライクな私服姿の初瀬と、学校帰りで制服姿のままの美朝、二人明るくおしゃべりを交えながら、初瀬用の化粧水や乳液やリップスティックなどを選んで回る。美朝はちょうどいいついでと思ったのか、少し恥ずかしそうに生理用品の確認をしてきて、すでに用意済みの初瀬は『あえて昨日は言わなかったのに』と内心複雑な気持ちを抱きつつ、逆に美朝のことを聞いてニヤニヤとからかったりした。
家に戻ってくると、昨日母親と買った生理用品を美朝に見せて、またからかったりきわどい話をしたり、美朝が初瀬に化粧水や日焼け止めの使い方を改めてレクチャーしたり。二人笑顔でじゃれあって、この日も少しずつ深くお互いを求めて、お互いにお互いを感じ合う。
「ね、明日、初瀬くんのお弁当作ってきてもいい?」
「おお、作れ作れ。みあの手料理も久しぶりだな。ちょっとは上達したか?」
「うん、ママにちゃんと教わってるから、きっとちょっとはしてるよ」
「じゃあ期待だな」
「あ、でも、あんまり、まだいっぱいは期待しないでね。お弁当作るの、久しぶりだし」
「いやいや、むっちゃ期待するから。明日が楽しみだぜ」
美朝は帰り際に明日の初瀬のお弁当を作る約束をして、初瀬に期待されて嬉しそうにわたわたして、今日も名残惜しそうに帰宅した。
夜の電話も甘い二人だったが、『明日は家まで迎えに行くね』とマイペースに切り出した美朝に、初瀬は「あー、すまん。おまえに会う前に、ちょっとエリナと会っておきたいんだ」と美朝の迎えを断った。「おまえはいつも通りバス停で待っててくれ」と続ける初瀬に、美朝は電話の向こう側で数秒沈黙を作ったが、エリナの現状を思い遣ったのか、すぐにわかったと頷いてくれた。
『でも明後日からはいいよね? 朝は迎えに行くからね』
「わざわざ遠回りせんでもいいのに」
初瀬はそう言って笑いつつ、今度は拒否せずに、美朝の提案を受け入れた。
そのエリナは、美朝が毎回誘っているようだが、初瀬に会いには来なかった。エリナはまだ、今の初瀬と直接顔を合わせるのは抵抗があるらしい。
それでも、初瀬とエリナのメールのやりとりは続いていた。初瀬は直接会いたかったが、メールだけの一日も悪くはなかった。入院中とは違い、昨日からエリナの返事も早い。文章が短いのは相変わらずだが、日中も休み時間のたびにチェックしているようだし、夜にもすぐにメールが返ってくる。
『明日は二個早いバスで行く予定。バス停に着く前にちょっと会いたい。途中で待ってるからおまえも待ってろよ』
『寝坊したら置いてくから。二個早いバスって何分発?』
メールだけのやりとりは、じれったさもあったが、もう明日から学校だ。これからはお互いに学校に行くだけで、毎日会うことができる。
まだ早い時間に眠くなる初瀬は、そんなメールのやりとりをしながら明日の準備と寝る準備をして、最後にめるめると二通のおやすみのメールを出して、電気を消してベッドにもぐりこんだ。
大好きな二人の女の子を想いながら、初瀬は今日もだれにも内緒なことをして、色々な感情の入り混じった気だるい睡魔に身をゆだねた。
prev index *
初稿 2012/03/10
更新 2012/03/10