夢の続き
Taika Yamani.
番外編その4 「アイスクリームショップ」
ジーパンと半袖シャツに、その上からジージャン。一頃に比べればだいぶ育ったが胸はまだあまりないから、大きめのジージャンで前を閉じれば膨らみは目立たない。真夏だけあって多少暑いが、どこも冷房が効きいている昨今、気になるのは外にでている時だけだ。
後は髪をまとめて、器用に全部野球帽の中に押し込む。最後の決め手は愛用の黒ブチメガネだ。
朝、一度洗面など済ませた後に着替えて、此花希がそんな格好でダイニングに入っていくと、テーブルについていた父、蔵人は、新聞から顔を上げて、それから一瞬のけぞった。
「の、希?」
「……黙ってても、わかる?」
希はいきなり名前を言い当てられて、少し考え込む。身長百五十センチないくらいの中学生に見えると思っていたのだが。
「い、いや、顔を見ればすぐわかるが……、なんだね、その格好は?」
「希ちゃん、男の子みたいね」
料理をテーブルに並べながら、母、茜も、少し楽しげに笑う。
「そのつもりなんだけど……変装になってない?」
「まあ、変装なのね。顔を見て声を聞けばすぐにわかるわ。わたしは希ちゃんのお母さんですからね」
「……そうだね、ここは家だしね」
「でも、ちょっと俯きがちにして黙ってれば、すぐにはわからないかもしれないわね」
「知らない人にも、女だとばれると思う?」
「よく見れば一発ね。希ちゃんは可愛らしいから。遠目なら、すぐにはわからないかもしれないけど」
「ど、どうしてそんな格好をしてるのだね?」
「ナンパ避けにどうかと思って」
「…………」
「あらあら、希ちゃんモテモテなのね」
なぜか黙る父と楽しげな母が対照的だ。希は笑うと、帽子を取ってメガネをはずして、頭を軽く振ってから、母を手伝いに動いた。料理を食卓に運ぶ。
「……バイト先に、つきまとう男でもいるのか?」
高等部二年の夏休み、希は夏休み限定でアイスクリームショップでアルバイトをしている。希はずばり言い当てられて、内心苦笑しつつ、微妙に話をそらした。「出待ちをしてる人がたまにいる」なんて、この父には言えない。
「そうじゃないよ。目立ちたくないだけ」
「それは無理じゃないかしら? その格好でも、女の子がよってくるかもしれなくてよ?」
今度は、希の苦笑は顔に出た。
「小学生の女の子にナンパされるの?」
「中学校ならお姉さまなんて言われてたかもね?」
母と二人で、女の子モードで会話。茜は娘とそういう会話ができることが嬉しそうで、終始ニコニコだ。一方父親の方はなにやらぶすっとしている。三人いただきますを言って食べだしてすぐに、ぶっきらぼうに切り出してきた。
「……希は、そんなによく声をかけられるのかい?」
「今はそうでもないよ。一人ではあんまりうろつかないしね」
「怜悧くんがいれば安心よね」
「……あの男と夏休みもよく会うのか?」
「よくと言うほどではないよ」
「いいのよ、希ちゃん、お父さんは気にしないで。お父さんには、希ちゃんに近づく男は全部悪い虫に見えるだけなんだから」
「お、お父さんは、あの男と出歩くのも感心しないぞ!」
「大丈夫、お父さんが心配するようなことは何もないよ」
毎日会ってるしたまにキスまでされていると言ったら、この父はどう反応するのか。見てみたい気もするが、怖い気もする希だった。
「それより、制服のわたしとさっきのわたしを並べて、あんまり親しくない人が、すぐに同一人物と気付くと思う?」
「親しさの度合いによるけど、上手くばけてたと思うわ。ナンパ避けなら充分効果的じゃないかしら」
「よかった」
「……父は寂しいのう。希が女の子のまま息子ならよかったのに」
どういう息子だ。希は笑ってしまった。
「希ちゃんなら、男の子でもとても可愛かったでしょうね。お母さん、ちょっと見てみたかったかも」
「うむ。いや。うむ。いや」
「あはは。お父さん、その態度は何?」
「だってなぁ。娘で全然オーケーだが、いつか嫁に行くと思うとだなぁ」
「あら、わたしは早く希ちゃんのウェディング姿を見てみたいわ。孫も抱きたいし。怜悧くんとは、今どこまでいってるの?」
「おかーさん……」
「そ、そういうことはまだお父さんは許さないぞ!?」
「お父さんも、本気に取らないでよ。お母さん、お父さんを挑発しないで」
「だって、彼とはそうなのでしょう? どうなの?」
「ち、ちがうよな? あんな男なんとも思ってないよな?」
二人して希に詰め寄ってくる。希としてはもう笑うしかない。
「今はただの、仲がいいお友達だよ」
怜悧が聞けば、かなりいじけたかもしれない希の発言。母茜はがっかりし、父蔵人はちょっとだけ安心したように何度も頷いた。
「まだまだ希には十年早いからな、うんうん」
「でも、今は、ということは、見込みはあると言うことよね?」
「おかーさん、もうそれはいいから、ほら、二人とも早く食べないと時間なくなるよ!」
希は強引に話を切り上げにかかった。これ以上この話題を続けると、お父さんがちょっと可哀想なことになる。
しかし、この日は母がさらに追求してきたため、父は冷静さを無くした。希は時間ぎりぎりになって出かけていく両親を、やれやれと笑って見送ることになった。
午前中は家で過ごし、十時前に早めの軽いお昼ご飯を食べてから、希は改めてジージャンを羽織って帽子を被ってメガネをかけて、お気に入りのリュックを背負って、アルバイトに出かける。
バイト先は大きなターミナル駅から数分の場所で、これまでは声をかけられることも少なくなかったのだが、この日は男の子の扮装のせいか、何事もなくお店に到着した。
お店は大通りに面した場所にあり、店に入ってほんの数歩でカウンターにぶつかる。店内で食べるという感じのお店ではなく、「アイスは売るから外で歩きながら食べてね」という店構えだ。
正直希は初めてここにきた時、面接の電話を入れた後のことだが、ちょっと怯んだ。その数歩の距離は店員にとって微妙で、外の通りすがりの人にもモロに見られる位置にあったからだ。もしそれ以外の条件が少しでも悪ければ、希は面接で確実に断っていただろう。
今では、希はけっこう楽しんで通っていた。バイト仲間も気さくだし、「アルバイトの女の子」という立場もなかなか面白い。人の目も、自分は売り子でしかないと割り切ってしまえば黙殺できる。
夏休みの暑いこの日、お客さんは中高生女子が多いようで、店の前は黄色い声に溢れている。恋人なのか友達なのか、女の子と一緒の男の姿もあるが、男一人というのはそう多くない。裏口もあるらしいが従業員も正面入り口からお店に入ることになっているから、希は微妙に女の子の視線を感じながら、少し列を割り込むようにして中へ。
この時間、売り子三人が忙しく動き回っていた。奥に行こうとする希に、その中の一人が少し鋭い声をかけてくる。
「お客さま! もうしわけありませんが、そちらは」
スタッフルームだから入るなというようなことを言われる。しまった、と思いながら、希はとっさに顔を上げて、道路側には背を向けつつ、メガネをはずして見せた。
「あ!」
希に気付いてくれたらしい。希は微笑んで軽く頭を下げて、邪魔しないうちに奥へ入った。そのまま更衣室に向かい、ドアをノックすると「あいてるわよ〜」という声。希は挨拶をしながらドアを開けた。
「おはようございます」
更衣室では、一見希より五歳ほど年上に見える女性、つまり大学一年生くらいの女性が、着替えている真っ最中だった。なかなかに整った容姿だが、なによりそのスタイルがいい。まだスレンダーな希と違い、ぼん、きゅ、ぼん、という感じだ。
「おはよ〜うううう?」
その女性、柊彩音は、振り向きながら声をだして、希の姿に目を丸くした。
「希ちゃん???」
「はい。わたしです」
ドアを閉めて鍵も閉めた希は、帽子もとった。頭を軽く振って、長い髪を背に流す。
「び、びっくりしたわ。だれかと思ったじゃない」
彩音は四月からずっとここでバイトをしている大学二年生だ。夏休みはほとんど毎日入っているようで、希は色々とお世話になっている。美人だが気さくな彼女は、他の店員にも慕われて、いい先輩といった感じである。
「すみません」
微笑んで言いながら、ロッカーに荷物を置く。彩音は希をじろじろ見やりながら、着替えを再開する。
「その格好はナンパ避けね? どうだった? 効果あった?」
「少しはあったみたいです。今日は来る時にだれにも声かけられなかったし」
リュックからタオルを取り出して、簡単に汗を拭きながら希は答える。
「いつも声をかけられてたわけね。さすが希ちゃん」
「全然嬉しくないですよ。どうして男って、見た目だけで声をかける人がいるんでしょうね」
「あはは。それ、人類の半分くらいを敵に回す発言ね」
そんなことを言われても少し反応に困る。今の希にはただの本音だからだ。
「ふふ、希ちゃん、可愛いものね。しかたないか、可愛い子には可愛い子なりの苦労があるものね」
「…………」
「でももっと着飾ればいいのに。逆にわたしは可愛いぞ〜って自己主張してれば、男なんて近づいてこないかもよ?」
「わたしは、目立つより地味でいいです」
「無理無理。男が放っておかないわ。その格好でも可愛いもの」
「そんなに誉めてもなにもでませんよ?」
「本音よ」
くすくすと笑う彩音。希も笑いながらジージャンを脱ぎ、ロッカーからユニフォームを取り出す。
「胸は上着で隠してたのね」
「隠すほどないですけどね」
「ちゃんとあるじゃない。それに、希ちゃんはまだこれからでしょう?」
「どうなんでしょうね」
ユニフォームは、タイトスカートに縦じまシャツにリボンと、腰から太ももだけ覆うタイプのエプロンにサンバイザーだ。外にでないのだからサンバイザーはどう考えてもいらないと思うのだが、これもセットで正装である。世の中謎が多い。
「でも、よくその長い髪が帽子に入ってたわね。希ちゃんは頭もちっちゃいからかな?」
「ん〜、全体に小さいのは自覚してますけど……頭もなんでしょうか?」
「うん。見た目からして小さいもの。あ、男の子向けの帽子だからというのもあるのかな? そういうの好きなの?」
「友達から強奪しました」
「あはは。ほんとは彼氏いるんじゃない?」
「いません」
彩音に背を向けてシャツを脱ぎ捨ててから、きっぱり言い切る希。すぐに上からユニフォームのシャツを被る。
「作ればいいのに。高二の夏は一度しかこないのよ? こんなとこでバイトしてるより、ステキな彼氏を探した方がいいんじゃない?」
「ここはいいところですよ。気に入ってます」
「ふふ、いい子よね、希ちゃんは」
一足先に着替え終えた彩音は、優しく希の頭を撫でてきた。身長が百六十くらいある彩音は、微妙に希を子ども扱いだ。希としては、彼女ともまだ十五センチほども身長差があることが、内心ちょっと切ない。
希は背を向けてジーパンを脱ぎながら、話題を変えた。
「今日は、彩音さんは何時あがりなんですか?」
「ラストまでよ。いっしょにやる?」
脱ぎ捨てたジーパンを放ると、すぐにタイトスカートをはく希。膝の頭が完璧に見えていて、太ももも少し見えている。希の主観では、ミニ、と言っていいのかどうか、という微妙な長さだ。が、希のたった一人の男友達が見れば間違いなくミニと決め付けたに違いない。
「やめておきます」
「あら、さびしいこというのね。残業手当がつくわよ?」
「身体が持ちませんから」
嘘じゃないところがまた切ない。
「希ちゃんって、儚くてかわゆいよね〜」
「……儚いというのはちょっと嫌ですね」
表面上は冷静さを崩さないが、内心まじめに希は落ち込みかけた。彩音は笑ってそんな希を励ます。
「あはは。だいじょぶだいじょぶ。じゃあ、今日も、お姉さんと一緒に働きましょう〜!」
「はい」
ニコニコと、笑ってみせる希。
「こういうときは、おー、でしょ?」
「…………」
「おー、は?」
「……お〜!」
「じゃ、もっかいね。今日も、お姉さんと一緒に働きましょう〜!」
「おー!」
やたらと恥ずかしいが、こういうのも楽しい。だがやはり笑われた。
「あはは、希ちゃん、赤くなっちゃって、可愛い〜」
「…………」
「あ、あは、いじめてごめんごめん。ほら、着替えて戦場に乗り込むわよ!」
「……はい」
結局、希も笑ってしまう。希としては当初バイト先ではクールに徹するはずだったのだが、彩音の存在がその計画をぶち壊してしまった。特に気を使ってくれているというわけでもない、自然な彩音の態度。なのに希の気持ちに自然にマッチする。
まだ何日かしか顔を合わせていないのに、希は彩音をすっかり気に入っていた。相性がいいのかもしれないし、彩音の性格がいいということかもしれないが、希はここでは運がよかった。
「今日は暑いし、忙しくなるわよっ」
「たいへんそうですね」
「じゃ、わたし、先に行ってるわねっ。希ちゃんも早く来てねっ」
無駄に気合いが溢れてきたのか、彩音はバンバンと希の背を叩くと、明るく更衣室を飛び出した。
時間前なのに仕事をしようとするバイトの先輩。時間前なのにバイトが仕事をしようとする職場。
本当にいい環境だと思う。
希は笑うと、自分も応援に駆けつけるために、少し急いで残りの準備をする。
その彼を見たとき、希はカウンターの下に隠れたくなった。
その気になれば、お金持ちの家の末っ子の彼の情報収集能力は桁が違うから、いつかこういう日が来るかなとは思っていた。人を使えば簡単だろうし、自分の足で希の後をつけることだってできる。だからこれあるかなと予測はしていたが、こういうお約束イベントはできれば回避したかった。
先に気付いたのは希だった。なぜ気付いてしまったのか、自分でも謎だ。客がアイスを選んでいるその最中に、自称「希の恋人」の朝宮怜悧が店の前を横切る。
希のゼロ円スマイルが、一瞬凍る。
怜悧は、何気ないしぐさで、店の中を覗き込む。通りすがりに、歩きながらちょっと見てみただけ、という風情。
「…………」
「…………」
ばっちり目があってしまった。希は逃げ出したかった。
「あの、ストロベリーと抹茶ラズベリーの、ダブルを」
客、若い男の声で、希の硬直がとける。
「ストロベリーと抹茶ラズベリーのダブルですね。ありがとうございますっ」
にっこり微笑んで、注文を承る希。怜悧の視線を、痛いほど意識しながら、客を捌く。
怜悧はとりあえず列に並ぶという暴挙を見せなかった。希としては一安心だ。話しかけられたら、冷静でいられる自信がない。
それにしても、混んでいるのがいいことなのか悪いことなのか、極めて微妙な状況だった。空いていれば隙を見て話しかけられるかもしれないが、逆に空いてれば逃げ出すこともできる。この日は忙しくてまだとっていないが、休憩を十分ほどもらえるからだ。
時間は二時。終了時間まで後一時間ほどある。この先どうなるか、希は予測がつかない。
しかも、事態は希の想像の斜め上を行った。
怜悧はお店の前の街灯にもたれかかってまっすぐに希の方を見つめていたのだが、何人かの女の子にいきなり逆ナンパをされ始めたのだ。
「むか」
希はかなり面白くない心理になりながら、接客をするはめになった。怜悧は笑み一つ浮かべずにそっけなく応じているようだが、会話が全然聞こえてこないから余計いらいらする。接客に集中しようとするが、視界にちらちらと入ってくるのだからたちが悪い。
営業スマイルが本当に営業スマイルになる。バイトを楽しめなくなる。
それでも接客に影響を出さなかったのは精神力の賜物かもしれないが、二時半になって徐々に客足が遠のいてきた時、希の精神はかなり疲弊していた。
「希ちゃん、休憩まだよね? 疲れてるみたいだし、休憩どうぞ」
彩音のこの言葉に、希はとてものりたかったが、希のバイト時間は残り三十分しかない。
「後三十分ですし、今日は休憩、いいですよ」
「そういうわけにはいかないわよ。今なら大丈夫だし、いってらっしゃい」
他の同僚たちも、客の相手をしながら横目で見て、軽く笑う。
「……ありがとうございます。じゃあ、休憩いただきますね」
「今日はなに持っていく?」
休憩時間にただでもらえるアイスもこのお店で働く上での魅力だが、この日ばかりは希はそれを喜ぶ気力は残っていなかった。
「バニラを、お願いしていいですか?」
「希ちゃんはいつも定番なのね」
笑って、彩音が希のアイスの用意にかかる。
そのタイミングで、また一人お客が。
しかも希の目の前に。
希はすぐ笑顔で挨拶をしようとして、硬直した。タイミングを見計らっていたのだろうが、よりにもよってと思う。
「…………」
「…………」
その客、怜悧の表情はどこか不機嫌そうだった。希は口を開けない。怜悧も、自分から話しかけないという約束を守ってるつもりなのか、口を開かない。
希はすぐに営業スマイルを浮かべた。
「い、いらっしゃいませっ」
「……おまえは、そんな格好でいったい何をしている?」
「…………!」
何をしているかなんて明白なのに、いきなりこれはないだろうと思う希。驚いたのは傍にいた客や店員で、彩音が少し険しい表情で怜悧を見た。
「希ちゃん、知り合い?」
「あ、な、なんでもありません。申し訳ありません、お客様。何になさいますか?」
「希をテイクアウトで」
「…………!」
キッと、希は怜悧を睨んだ。タワケタことをほざいた怜悧は、相変わらず不機嫌そうに希を見返す。
「…………」
「…………」
数秒の睨み合い。先に態度を変えたのは希だ。妙に視線を集めていたからだ。少し慌てて、ぐいっと身を乗り出し、小声で問う。
「なにしにきたの?」
「おまえ、このバイトやめろよ」
怜悧の声は小さくなかった。しかもいきなりとんでもない発言。希の視線は冷たくなった。
「怜悧、話があるなら後で聞く。今は普通に頼むか帰って」
「……バニラをくれ」
希は少しだけほっとした。
「ありがとうございますっ、バニラのシングルですね」
無理やり営業スマイル。
「希ちゃん、わたしがやるわ。休憩どうぞ」
彩音がよってきて、やんわりとした声を出す。それでいながら、少し有無を言わせぬ口調だった。
「えっと、はい。お願いします」
希は彩音から自分の分のバニラアイスを受け取って、その場を逃げ出そうとする。
「希!」
「お客様! 誠に申し訳ありませんが」
彩音の声音は、柔らかいようでいて、凛然としていた。
「当店のスタッフはただいま就業中ですので、プライベートな用件はご遠慮ください」
彩音は怜悧の視線から希を護るようにして立ち、毅然として怜悧を見つめる。
怜悧は鋭く彩音を睨んだようだ。希は彩音の背で視界が遮られて、内心ちょっとハラハラだ。
「……ああ、すまないな」
怜悧の声は、表面上は落ち着いていた。
「バニラを一つもらえるかな」
「バニラのシングルですね、ありがとうございますっ」
彩音の声も落ち着きを取り戻しているが、まだどこか警戒した色が残っている。それでも営業スマイルをしっかりと浮かべているのはさすがだ。希は少し不安だったが、彩音を信じることにして、素直に休憩をもらうことにした。
「……怜悧はすぐ帰ったかな……?」
更衣室でアイスを食べて、少しぼんやりとしながら、希は呟く。
夏休み、希のアルバイト先にやってきて、いきなり「このバイトやめろ」などとほざいた友達の怜悧。すぐに休憩を理由に希は引き下がったが、最後まで顛末を見届ければよかったとちょっと思う。特に騒ぎは起こらなかったようだし、怜悧はさすがにそこまでバカではないとは思うが、あの後どうなったのか気になってちっとも気が休まらない。
「だいたいどうして普通に話しかけてこないんだ」
何が気に入らないのかは知らないが、いきなりあんなケンカ腰。さわやかに「やあ」とかわざとらしく言ってくれれば、ちょっと膨れたりして、バイト仲間にからかわれたりしてそれで終われたのに。……それもそれでいやだが。
バイトの先輩の柊彩音はなんだか怜悧に悪い印象を抱いたようだし、希も怜悧に対して怒りに近い感情を抱く。素直に応援してくれればいいのに、まるで邪魔するような態度。怜悧は最悪の行動をとったように思う。
「希ちゃん、あの男は何?」
アイスを食べ終えた頃、更衣室のドアが開いて、彩音が入ってきた。かなり不快そうな表情だ。
「彩音さんも休憩ですか?」
「心配だから様子を見にきたのよ。まだ店の前にいるわよ」
「……ふぅ」
座ったまま、希はちょっと嘆息。
「つきまとわれてるの? 警察呼ぼうか?」
いきなりそれはやりすぎだ。希は微苦笑を浮かべる。
「口も性格も悪いけど、仲のいい友達ですよ。すみません、迷惑をかけてしまって」
「仲のいいともだちぃ?」
控えめに言っても、彩音の声は胡散臭げだった。
「いきなりやめろとか言い出すなんて、どういう友達よ?」
「どう、と言われても。学校のクラスメートです。仲がいいから、かえってあんなこと言うんです」
「……あんなのと仲がいいの?」
あんなのときましたか。希は思わず笑ってしまった。
「ちょっと困ったりもしますけどね。嫌いじゃないです」
「希ちゃん!」
いきなり、彩音は希の両肩をつかんできた。
「まさかあんなのにひっかかってるんじゃないでしょうね? 見た目だけで男を判断してない? ああいうのは絶対彼氏にしない方がいいわよ! 見た目がいいだけで、絶対女を泣かせるタイプだから!」
「あは。そうかもしれませんね」
内心ちょっと複雑な心境だが、希はさらりとそう言っていおいた。見た目だけなら今の怜悧はプレイボーイに見えるから、その評価はあながち間違ってはいないのかもしれない。「性格もあの性格だし、ヒモにでもなるのが似合いそう」などと、希は本人が聞けば怒るであろう感想を抱く。
「笑いごとじゃないからね。自分を大事にしないとダメよ! 希ちゃんは可愛いんだから、男はすぐよってくるんだから!」
「大丈夫ですよ。あんまり、悪く言わないであげてください」
「ま、まさか、希ちゃん本気であんなのが好きなんじゃないでしょうね!?」
「今のところそういう関係じゃないです」
「本当の本当に!?」
「本当の本当です」
「……本当の本当の本当に?」
「本当の本当の本当です」
「本当の本当の本当の本当に?」
「本当ですよ」
希は笑い出してしまう。彩音は唇を尖らせた。
「……希ちゃん何か脅されてるのではない?」
「だから大丈夫ですってば。なんなら、後で殴っておきます」
「希ちゃんにできるの? 変なことされたりしない?」
「させません」
希は笑いながら、大きく頷く。彩音はまだどこか不満そうに希をじろじろと見る。
「ひと気のないところであんなのと二人になっちゃダメよ? それ以前に二人きりで会ったりしちゃダメよ? 今日はまっすぐ帰りなさいよ?」
「えっと……」
この日も、三時半に怜悧と駅前の喫茶店でまた待ち合わせをしている。希は一瞬言いよどみ、その「間」に、彩音は表情を変えた。
「……希ちゃん、まさかあいつと会う約束をしてるの?」
「……はい」
できるだけ嘘はつきたくない。素直に答えると、彩音はきつい表情で腕を組んだ。希はちょっと困ってしまい、下から上目遣いに、彩音を見上げる。
「わたしの人を見る目、そんなに信用できません?」
「……希ちゃんは世間知らずそうだから」
希はまた笑った。むしろ希は並の女の子より男のことは知っているはずだし、充分したたかでもあるのだが。
「心配してくださってありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
「…………」
じっと希を見おろしてくる彩音。希はにっこりとそんな彩音を見上げる。
「……ふぅ」
先に妥協したのは彩音だった。
「じゃあ、今度わたしにも紹介してよ。希ちゃんの彼氏」
「彼氏じゃありませんってば。ここにはもう二度とこないように言います」
「…………」
「でも、本当にそんなに悪い子じゃないんですよ。いつも、わたしを気にかけてくれてるし」
「もー!」
彩音は突然、希に抱きついてきた。
「希ちゃんいい子すぎ! お姉さんは心配よ!」
「…………」
抱きつかれてもちょっと困るが、気持ちは素直に嬉しいから、希はやんわりと微笑む。
「なにかあったら言うのよ。携帯手放しちゃダメよ。いざとなったら110だからね!」
「はい。そうします」
希は笑って頷くと、彩音に抱きつかれたまま、何とか立ち上がった。
「そろそろ戻りませんか? また混んでると大変でしょうし、もう十分になります」
「うん、そうね。希ちゃんも後ちょっとファイトだねっ」
「はいっ」
明るく元気よく返事をする希。二人一緒に、店頭に戻った。
売り子が二人減っていたためか、またかなり混んでいた。二人急いで、並んでいる客を引き取ったが、まだ外に怜悧がいることも希は瞬時に気付いていた。すぐに怜悧も希に気付いて、まっすぐに視線を向けてくる。
「あのバカ、男一人であそこでアイスを食べたのか」とか、「もう一度店に入ってきたら後で本当に殴る」とか思いつつ、客を捌く。
同僚の一人がすれ違いに「まだいるわよ」と指摘したが、希には今のところどうしようもない。とにかく笑顔で客の相手だ。
交代のバイトもやってきて、すぐに三時が近づく。
「希ちゃん、本当に一人で平気?」
まだ怜悧がいるから、彩音が隙を見て話しかけてくる。混んでいる接客をこなしながら、希は小さく頷いた。
「大丈夫です」
「…………」
彩音はさらに心配そうな顔をしたが、それ以上話す余地はない。交代のバイトが着替えて店頭にでてきたのを機に、希は挨拶をして更衣室に引っ込んだ。
ちゃっちゃっと着替える。また男装して、顔は俯きがちにして歩く。昼前にその姿を見ていた面々は今更驚かないが、交代で入った子はちょっと驚いていた。心配そうな彩音たちに、そっと微笑んで軽く頭を下げてから、希は店を出た。
希が外にでると、そこで無造作に待っていた怜悧は、まっすぐに希に向かって歩いてくる。
希は顔を上げずに、少しだけ笑った。男装している上に顔を見せないようにしていたのに、一発で見極めてくる怜悧。ちょっと嬉しい。
「…………」
怜悧は無言のまま希の手を握って、なぜか駅とは反対方向に引っ張る。希はとりあえずその手を払うだけで、素直に怜悧の後についていった。店の前だし他の客もいるのに、この格好で騒ぐわけにはいかない。
てくてく少し歩いて、店から充分離れたところで、希は冷たい表情で怜悧を見上げた。
「何か言い訳があるなら聞くけど?」
「それはこっちの台詞だ。店はなんだアレは。あんな目立つ場所で、よくあんな恥ずかしい格好できるな」
「恥ずかしい格好って……」
希は歩きながら怜悧を睨む。
「そういう目で見る男の方がよっぽど恥ずかしいよ」
特別、胸を強調するデザインでもないし、スカートも多少短いが常にカウンターの中。健康的に可愛いというデザインではあっても、恥ずかしがるほどではないはずだ。
「しかもあんなに愛想笑いを振り撒いて」
「それも仕事だからだよ」
「…………」
いきなり、怜悧の手が頭に伸びてきた。帽子を強引に取り上げてくる。
「あ」
長い髪が落ちてきた。希はとっさに帽子を取り返そうとしたが、もう遅い。ちょっと膨れっ面をしながら、希は軽く頭を振って手ですいて、髪を後ろに流す。
「いきなりなにする」
「今日はこれからデートだから。メガネもはずせ」
言いながら、手が顔にまで。希は「まったくもうこいつは!」と思ったが、人ごみ溢れる街中なので、ここでも逆らわなかった。むしろため息をついて、ジージャンを脱ぐ。
「何で服まで脱ぐ?」
「暑いから。ほら、帽子返して」
希は帽子を奪い返して、ジージャンを腰に巻いてから、髪を背に流したままに頭に被る。髪をまとめていないと帽子は大きく、油断すると目まですっぽりふさがってしいまいそうだった。帽子のつばは後ろに回すことにする。
「メガネも返して」
メガネも取り返してリュックにしまいながら、改めて希の方から怜悧に不満をぶつけた。
「だいたい、どうして来たの? 来るなって言ったのに」
「偶然だ」
怜悧はさらりと言い切り、そこで足を止める。大きなCDショップの前だ。そのまま希の身体を壁際に追い込むと、その顔の横から壁に手を当てて、上から顔を寄せてくる。街中に稀に見られなくもない光景だが、露骨に親しげな態度。希は逃げなかったが、リュックを胸元でがさごそしながら、さらにきつく怜悧を睨んだ。
「嘘つき」
「嘘じゃないぞ。CD屋に行こうとしたら、希がいたから」
「じろじろ覗き込んできたくせに」
「おまえがいるかもしれないと思ったからな」
怜悧は希がこの街のどこかのアイスクリームショップでアルバイトをしていることは知っていたから、もしかしたらアイスショップを見かけるたびに覗き込んでいた、ということなのだろうか。
「本当に? 調べさせたとか後をつけたとかじゃなく?」
「こんな嘘はつかない。それにその気ならもっと早くにいく」
「…………」
なんとなく、希は唇を尖らせる。
「でも、あの態度は何? お店の人たちにすごい悪い印象与えてたよ」
「他人なんか知るか。おまえさ、おまえ目当ての男がいたの、わかってるか?」
ただでさえ不満げだった怜悧の表情が、急に感情的になった。痛いだろうに、ばん、と壁を強く叩く。
「おまえが他人にじろじろ見られると思うだけでいらいらする!」
「気のせいだよ、そんなの」
「嘘つけ。その格好も相手するのがめんどくさいからだろ?」
「わかってるならそっとしておいて」
「ほんとにやめろよ、あんなとこ」
どうしてここまで言われなければいけないのか。この独占欲ははっきり言って鬱陶しすぎる。
「勝手すぎ。二度とバイト先には顔を出さないで。いいね?」
「…………」
「……本気で嫌われたい?」
「……迎えに行くくらいいいだろ? 心配なんだ」
「…………」
急に真顔になるなバカ。
一瞬ドキンとしたが、希は毅然として睨み返した。
「余計なお世話」
「希は自分が可愛い女の子だという自覚が足りない」
「キミは妄想が強すぎる。本当にわたしのために言ってるのなら、そっと見守っててよ」
「だから帰りに迎えに行くくらいいいだろ!」
「店まで来られるのは迷惑だと言ってる!」
希は思わず言い返したとたんに、人目を集めたのを意識した。二人とも声が大きすぎたのだ。
一日一回は怜悧とケンカをする運命なのだろうか。ちょっと疲れる。希はもう怜悧を無視することにして、強引に怜悧の腕に中からでた。すたすたと足を動かす。
「おい、待てよ!」
怜悧は当然のごとくくっついてくる。
「いい加減おれの気持ちも知ってるだろ!」
そっちこそわたしの気持ちを知ってるくせに、と、心の中で言い返す希。これ以上どうしろと言うのか。
「一緒にいたいだけなのになんでそこまで言うんだ!」
こちらの気持ちをまるきり無視して自分の感情だけ押し付けられて、それで相手が納得できると思うのだろうか。最近怜悧にも余裕がでてきたかと思っていたが、ちょっと希が外で人目につくことをやっただけでコレ。結局「怜華」の時と根っこがなにもかわっていない。
「おい、止まれよ! だいたい、おまえ、どこに歩いてるんだよ!」
「…………」
どこ、と言われても。希は深く考えていなかった。とりあえず逃げ出しただけで。よく考えると駅とは反対方向に歩いていることに気付いて、希は回れ右をした。
その動きで、ぶかぶかの帽子が頭から落ちてしまう。
あっと思い足を止めた希より早く、一瞬希とすれ違った怜悧が、回れ右しながら空中でその帽子をキャッチする。希はそれを最後まで見届けずに、また足を速めた。
「おまえバカか。ほら、待てよ」
待てと言われて待つ状況ではない。
「待てってば!」
すぐに怜悧は追いついてきて、今度は腕が強くつかまれる。希はその腕を払おうとした。
――が、それより早く、他の男の腕が怜悧の肩をつかんでいた。
「やめておけよ。彼女嫌がってるだろ」
「っ!」
怜悧はきつい視線をその男に向ける。見知らぬ他人だ。大学生くらいのなかなかにいい男で、二人連れらしい。希はそれを視界の隅におさめながら、即座にとっさに、怜悧のもう一方の腕をおさえた。
「怜悧!」
「…………」
希の制止の声に従って、いらだたしそうに、男を乱暴に押しやろうとした腕を止める怜悧。男に向かって、冷然と言い放つ。
「じゃまするな。消えろよ」
「そうはいかないな。キミ、大丈夫かい?」
希の声をいったいどう解釈したのか、状況がわかっていないらしい男だ。さわやかそうな表情ながらも、男が希と怜悧の間に身体を割り込ませるようにするのまで見て、希はため息をついた。
「彼から手を離してください。他人が心配するようなことはなにもありません」
相手の目を見て、きっぱりと。相手は押し黙った。
「ほら、わかったら離せよ。ただの痴話ゲンカに一々つっこんでくるな」
怜悧は少し乱暴に相手の手を払うと、そのまま希の肩に手を当てて強引に歩き出す。希は「なにが痴話ゲンカだ?」と思っていたが、ここで暴れたらまた話がややこしくなる。ぶすっと不機嫌に、怜悧に肩を抱かれて歩いた。男も追っては来ない。
「…………」
「…………」
CDショップの前を通り過ぎ、アイスクリームショップも通り過ぎ、そのまま駅に向かうルート。
希としては落ち着いてケンカができる場所に行きたいという心理があるのだが、本気で怒鳴りあいまでするつもりなら繁華街は不便だ。かといってこの状況で密室は論外だし、喫茶店などという場所でも落ち着かない。自分の家に呼ぶのももっての他だ。希はこの長い沈黙の間に、今日はもう帰るしかないな、という結論に達した。
一方、怜悧は何を考えているのか、気付くと鼻歌でも歌いそうな感じだった。しかも途中で道をかえる。
「こっちは駅じゃないよ」
「ん、ああ。いいんだよ、こっちで。腹減ってるだろ? おごるよ」
十時前に軽い昼食を取ったが、朝食から間がないしそんなに量は食べていない。それからこれまで口にしたものは、多少の水分と休憩時間のアイスクリームだけだ。いつもたしかに、バイトの後に怜悧と会う時の希はおなかをすかせているが、今日はそんな気分ではない。
「……いい。帰る」
いい加減に希は怜悧から身体を離そうとするが、当然というかなんというか、怜悧は離そうとしない。
「いいから、付き合えよ」
「…………」
なぜキミはそんなにご機嫌になってるんだ?
希は引きずられて歩きながら、胡散臭そうに怜悧を見上げた。いつのまにか、希の帽子は怜悧の頭の上だ。
「ん? どうした?」
「……それはこっちの台詞。何ニヤニヤしてるの?」
「ふん、さあな」
「…………」
怪しすぎる。あからさまに変だ。おかしい。ほんの数分でいったいどういう心境の変化があったのか? 怒る時も一瞬だが、ご機嫌になる時も一瞬。希としてはやはりわけがわからない相手だ。
「おまえの汗っていい匂いするよな」
「…………」
怜悧は希の髪に顔を近づけて、匂いを嗅ぐ仕草。希はため息をついた。怜悧の思考にはついていけない。
「暑いよ、いい加減に少し離れて」
「涼しいところに行けば問題ないよ」
「いくまで暑い」
「少しくらい我慢しろ」
「…………」
「ほら、しっかりついてこいよ」
強引に、怜悧はさらに、希の肩を強く抱く。
「…………」
……どうしてぼくはここで怒って帰らないんだろう?
希は突っ伏した。怜悧の身体に、全体重をかける。
「…………!?」
怜悧の身体が強張る。希は怜悧の胸に額を押し付けて、笑い出していた。
「負けたよ、もう。わけわかんないし」
「……の、希?」
不意の希の態度の変化に、怜悧はやたらと慌てている。
希は彼に寄りかかったまま、しばらく笑いっぱなしだった。
一番わけがわからないのは自分自身だ。「あーあ、なんでこんな相手が好きなんだろ!」と、口には出さないが自然にそう思い、なんだか可笑しい気分になる。押し付けた怜悧の胸も暑いし男っぽい汗の匂いがしたが、それも今は嫌ではなかった。発作的な笑いがおさまらない。
同時に、なんとなく希は気付いていた。怜悧のわがままに、希が無視したりそっけなくしようとするから、怜悧はさらに強く無理を言ってくる。柔らかく流せば、怜悧だって極端にムキになることはないのかもしれない。結局余裕がなかったのは希も同じだったということなのだろうか。
希は笑顔で顔を上げた。
「怜悧は、わたしがバイトするといや?」
「い、いやに決まってる」
「…………」
内心ちょっとカチンときたが、希は笑顔を絶やさなかった。
にっこり見つめて、まっすぐに。
「でも、応援して欲しいな。怜悧には応援して欲しい」
怜悧は数秒希の瞳をまじまじと見返していたが、不意に顔を赤らめた。
「……む、迎えに行くくらい、させろよ」
「…………」
お互いにある、譲れない一線。怜悧のそれが限界かどうかはわからない。でも、希は自分のそれが、限界には程遠いことを知っていた。
「……いいよ」
希は微笑む。怜悧はぱっと顔を輝かせた。
「ただし!」
もちろん、希は釘をさすことは忘れない。
「時間ぎりぎりにくることと、中に入ってこないことは守って。でないと殴り倒してでも一人で帰る」
「……た、たまにアイスを買いに行くくらいいいだろ? 一度くらいおれにもちゃんと接客してくれ」
「ちゃんと接客しようとしたのに、させてくれなかったのはだれ?」
いつものようにそっけなくではなく、笑いながら、希は言う。怜悧は頬を膨らませた。
「の、希がだれにだって同じような顔見せるから。おれだけに笑ってればいいのに」
「怜悧には、キミにだけの笑顔を見せてるよ」
本音だったが、言った後、少し恥ずかしくなった。頬が熱くなるのを感じて、希はばっと駆け出した。
「ほら、どこに連れってってくれるの! おなかすいた!」
「ま、まてよ!」
怜悧はすぐに追いかけてくる。希はわざと追いつかれて、腕をつかまれて、怜悧の横で笑った。
「CDって、なにか欲しいのがあったの?」
「え? ああ、いや。時間つぶしと思ってな」
希は怜悧の腕から逃れて、逆にそっと、怜悧の腕に手を当てる。
「そんな早く来なきゃいいのに」
「お、おまえに早く会いたかったんだよ」
怜悧の態度はどこかぎくしゃくだ。希はくすくすと笑う。
「早く来ても会えないのに」
「ま、まあ、そうだけどな。でもほら、今日はこうして会えただろ?」
「たくさん、じゃまされたけどね」
「そ、それはおまえのせいだ」
「彩音さんが今度紹介しろって言ってきたよ。わたしの彼氏に釘をさしたいみたいで」
「…………」
怜悧はなぜか押し黙る。希は笑顔で続けた。
「今日わたしをかばってくれたのが、彩音さんだよ。きれいな人だったでしょ?」
「の、希の方が何倍も可愛くてきれいだ」
また、怜悧の腕が、今度は希の腰に回る。
ちょっと甘くするとすぐこれだ。
希はそう思ったが、この時は嫌ではなかった。
「こら、調子に乗るな」
笑ってたしなめて、怜悧の脇腹をぐりぐりする。怜悧は笑って希を強く抱き寄せた。
「おれも釘をさしたいぞ。おれの希には手を出すなって」
「だれがだれのだ」
「おまえが、おれの」
二人、笑いながら、じゃれつきあう。
「第一印象最悪だからね。わたしに釣り合う相手と思われたいなら、ちゃんと丁寧にするんだよ?」
「別に思われる必要はないんだけどな」
「わたしが思われたいの! 親しい人が悪く思われたままなのも嫌だし、余計な心配をかけてるし」
「恋人が、の間違いだろ?」
「寝ぼけなさい」
「おまえも素直になればいいのに」
「ぜったい、なれません」
希は笑顔を絶やさなかった。素直になれない、と自分で言うことの意味を、希は知っていた。
「アイスは今度おごってあげるよ。うちのアイス、本当に美味しいよ」
「ああ、さっき食べたよ」
「そうだった。でも、あそこで一人で食べたの? あ、怜悧、さっきナンパされてたよね」
「お、なんだ、気になるのか?」
にこにこと、怜悧が嬉しそうに見下ろしてくる。希は「ぷんだ」という顔をした。
「ナンパなんてされるのは隙が多い証拠なんだって、だれかさん、言ってなかった?」
冷たく言ってみたが、希はそれがわざとなのかどうか、自分でも自信がなかった。でも、こういうときに、怜悧は希が欲しい言葉をちゃんと投げてくれる。
「おれが誘われて嬉しいのは希だけだよ。希以外、興味ない」
「ふ〜ん?」
ほころぶ顔を見られないように。希は怜悧の頭から帽子を奪った。つばを正面にしてかぶって表情を隠す。
「ぶかぶかだな」
「余計なお世話!」
「はは。希のお勧めはやっぱバニラか?」
「うん。でも、バニラしか食べてないかも」
「意外に冒険心がないよな。しょっちゅういくんだから、いろいろ食べればいいのに」
「ん〜、でも、よりおいしいものを探すのもいいけど、美味しいとわかってるのを食べるのも悪くないよ。まだまだ量が入らないし」
「今度一緒に全商品制覇しようぜ。バイトのたびに食べれば夏休み中に終わるだろ」
「ん〜、どうだろう? うちの、数多いよ」
また横に並んで歩きながら、他愛もない話をする。
「じゃあ、食べあいっこだ。半分食べさせろ」
「いやです。勝手にダブルでもトリプルでも頼みなさい」
「…………」
おれは希が食べたいんだ、という意味不明の呟きが聞こえた気がするが、気のせいだと思いたい。
笑顔を怖くして希が怜悧を睨むと、怜悧は帽子の上から、希の頭を撫でてきた。くるりと、帽子のつばが後ろに回る。
「おれは希と食べたいんだよ」
「…………」
いつも素直すぎる怜悧。
「……そうだね。一緒に食べるのもいいね」
希も、たまには、素直に。心から、にっこりと笑った。
concluded.
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初稿 2004/01/10
更新 2014/09/15