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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

番外編 
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  幕間 「ピアノ」


 高域に抜ける、澄んだ少女の歌声。
 歌声が途切れると、入れ替わりに、試行錯誤を繰り返すようなピアノの音色。
 一月の日曜日、友人の家の、ピアノの部屋で。
 久我山翼は友人の蓮見陽奈と一緒に、ピアノの前の、足の高い長椅子に並んで座っていた。
 艶やかな唇をきれいに動かして、身体で小さくリズムを取りながら、音を伝える翼。うなじを隠す長さで切りそろえられている髪が、翼の動きに合わせて微かに揺れる。耳に覆い被さっている髪を時折払う仕草は、本人にしてみればごく無造作な気取らない動きだが、この年頃の少女の自然な艶っぽさを帯びていた。
 翼の記憶の中にだけに存在する、立川ナツヒという少女アーティストの歌。翼が記憶を辿りながら数フレーズずつ歌い、陽奈がピアノでそれをなぞって確認し、専用に用意したスコアノートに記号を書き入れていく。
 イントロや間奏の部分は、翼は口を閉ざし、鼻歌っぽく、音を紡ぐ。
 陽奈はちょっとだけ笑って、横目でそんな翼を見る。
 最初は打算的で事務的なことを言っていたのに、いざ始めると、翼が歌っている様子は楽しげだ。翼の妹には内緒の作業だが、この場に彼女がいたら、陽奈さんだけずるいですと騒いだかもしれない。
 「陽奈? 繰り返そうか?」
 「ん、あ、うんん、大丈夫」
 翼の声に、陽奈は慌ててピアノに向き直る。翼が歌った部分を、頭の中で繰り返して精一杯指を動かして、ピアノで音を奏でる。陽奈は絶対音感を持っているわけではないから、ただ歌っていればいい翼よりも大変な役割分担だ。
 陽奈がピアノで繰り返す曲に、翼はOKを出したりちょっと違うと意見を言ったり、伴奏に合わせて歌って確認したりしながら、二人で楽譜を完成させる作業を続ける。
 どの歌も一曲五分程度だが、仕上げるのに三十分から一時間はかかっていた。二人とも楽しみながらやっていたが、楽しめなければ一曲目で挫折していたかもしれない。
 そんな陽奈を、翼も時折じっと眺めていた。
 背筋を伸ばしたまっすぐな姿勢で、ピアノに向きあっている陽奈。翼同様楽しげだが、その瞳はたまに集中力を高めるかのように閉ざされて、真剣な横顔を翼にさらす。微かに波打つ長い髪は艶やかにゆったりと背に流れて、陽奈の持つ優しげな空気を包み込んで、いっそう柔らかい印象をかもし出していた。
 「翼はピアノ、やっぱり覚える気ないの?」
 「え? ああ、やってみたいとは、思わなくもないけどね。いまさらやってもな」
 「そうでもないと思うよ? 中高年になってから覚える人もいるみたいだし」
 「……それは、暇とお金ができてからってことなんじゃない?」
 表面上は普通に言い返したが、翼の声はあまり好意的ではない。単に大人と言うならまだしも、中高年を例えに出されるのはちょっと嫌な気がする、十七歳の翼である。
 「でも、音楽関係の仕事するなら、覚えておいて損はないと思うな」
 「そうなんだろうけど、やっぱりいまさらかな」
 「やる気になったら、わたしが先生してあげるのに」
 「……陽奈も暇だな」
 「ん、翼と同じくらいにはね」
 陽奈は翼にちらっと視線を流して、くすくす笑う。
 途中途中でそんな他愛もない話を織り交ぜながら、まじめに楽しく時を過ごす。
 高校二年の三学期、月に数曲ずつ、翼は記憶の中の大好きだった歌を、陽奈の力を借りて形にしていった。








 concluded. 

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初稿 2005/01/03
更新 2008/02/29