ガールフレンド
Taika Yamani.
第五話 「二人」
I
自宅での病気療養というものは、えてして暇なものである。特に健康に近づけば近づくほど、時間と体力を持て余すようになる。
TS病にかかって約二ヶ月、ずっと学校を休んでいる高校二年生の高槻初瀬も、退院して三日目のこの日、朝から暇を持て余していた。休みそれ自体は歓迎だし、のんびりするのも嫌いではないが、一人ではつまらない。
普段はテレビのお笑い番組などもそこそこ好きで、いくつか録画しておいてもらったが、気になるようなものは一通り見終えて、すぐに見たいものは残っていない。本棚にはガールフレンドたちに借りっぱなしの小説――時々二人とも自分が読み終えた本を初瀬も読めとばかり初瀬の部屋に置いていく――なども眠っているが、読書をしたい気分でもない。
がんばって一時間半ほど勉強机に向かったりもしたが、それ以上やる気が出なかった。じっとしていると、まだまだ違和感が残っている「自分の身体」に鬱屈したりむらむらしてしまったりもする。強引に意識を変えようとしても、今の自分の肉体が連想を紡いで、好きな女の子の胸をさわって舌を絡めるキスをした昨日の余韻まで、心と身体に湧き上がってしまう。
こういう時は趣味が多ければ簡単に時間を潰せるのだろうが、初瀬は一人で遊ぶのがあまり得意ではない。小学校の頃からまわりの男子は携帯ゲーム機などに夢中になっていたが、初瀬は身体を動かす方が好きで、外で走り回ったり、年の離れた兄に構ってもらったり、仲良しの二人の女の子と遊ぶ方を好んでいた。はやし立てられても堂々と威張っていた初瀬は、こういう点ではまわりの男の子たちと少し違っていた。
ともあれ、そんな月曜日。
雨がしとしとと切れ切れに降って、湿度の高いじめっとした一日。
つい先日から女の身体で生きている初瀬は、今日も女物の下着を身に着けて、サイズの大きなメンズの半袖Tシャツとハーフ丈のカーゴパンツという姿で、日中を過ごしていた。長い髪は鬱陶しいから、いつも通り首の真後ろで黒いヘアゴムで二つに束ねている。
朝、最後に家を出る父親をダイニングで見送った初瀬は、しばしのんびりしてから、リハビリに丹念なストレッチをこなして、今頃学校で授業中の同級生たちのことを考えたりしながら勉強机に向かった後、一度ベッドに横になった。最初は本気で寝るつもりはなかったのだが、二人の女の子のことを想ううちに思考がだんだんと変な方向にも流れて、初瀬はそのまま仮眠を取った。ベッドの中で何をしたかはあえて記さないとして、お昼に起きた初瀬は、母親が作り置きしてくれた昼食を食べて、午後を落ち着かなく過ごした。
昨日の午後を二人で過ごした女の子のことを考えて、今日の午後これから二人で会う約束をしている別の女の子のことを考えて。
お気に入りの音楽をかけて、携帯電話でメールのやりとりをしたり、のんびり丁寧に爪を切ったり耳かきをしたり、午後にも軽くリハビリをしたり。
脈絡もなく部活をしたくなって、久しぶりに筋トレもしてみたが、以前と比べるとどうしようもなく非力ですぐにぐったりして、まだ体調が万全ではないことを考慮しても、今の自分のひ弱さに泣けてきた。男だった時も筋肉ダルマになるつもりはなかったが、今まで鍛えてきた分がすべて無になっているようなこの現状もあんまりだった。ただでさえ不満があるのに、今の自分の身体に鬱憤がこみ上げてきて、行き場のない感情をもてあまして、八つ当たり気味に暴れたくなった。
その後は、少し蒸し暑くてちょっとシャワーを浴びたくなったがタオルで汗をぬぐうだけですませて、冷蔵庫に向かって水分補給をして、また眠だるくなってきたがなんとか我慢して。雑誌などを流し見たり、ついつい無駄に何度もメールチェックをして意味もなく携帯をいじったり、外に遊びに行きたくなったり、ちょっとだけ真剣に将来や学校のことを考えたり、おやつを探してキッチンをあさってヨーグルトを食べたり。
そんなふうに時間を持て余していた初瀬だが、午後三時半が近づくと、だんだんとそわそわし始めた。
一度部屋を出てトイレをすませに行き、戻ってくると、初瀬はエアコンを除湿モードで稼動させて、網戸にしていた窓を閉めてレースのカーテンを閉め直して、なんとなくクローゼットに向かう。それから少し迷った後、初瀬は数年前にガールフレンドと一緒に選んだ中学時代のお気に入りのカジュアルを取り出して、ゆっくりと着替えた。
成長が著しくてすぐに着れなくなったが、中学二年の春夏に好んで着ていた服。濃いグレーのスレンダーなチノパンツに、上から下へと黒いグラデーションを描くシャープなデザインのVネックの半袖カットソー。そしてそのカットソーの上から、今年の誕生日のプレゼントにもらったシルバーのシップアンカーの少し大きなペンダント。
少しキザな印象もあるが、ガールフレンドたちにも好評で、十代の少年なりにカッコつけた初夏の軽装。男の初瀬のままなら、シャツアウトに着こなすカットソーの肩や袖や裾があまるということもなく、チノパンのウエストがぶかぶかということもなく、足元の裾を折り曲げる必要もなく、自然にスマートに男の子らしく似合っていた服装。
だが、今となっては、もう「女の子の男装」でしかありえない格好。
サイズの大きなカットソーに表れるゆったりとしたバストラインも、よく見るとうっすらと透けて見えそうなハーフトップブラの陰影も、シルバーのペンダントが胸元に作る柔らかなくぼみも。Vネックに覗くほっそりとした鎖骨も、きめ細やかな肌の透き通るような白さも、華奢な肩や背中のたおやかなラインも、自然な高い位置でベルトで締め付けているチノパンの、男性的ふくらみのないなだらかな前面も、まろやかなヒップラインも太ももも。
もうすべてが、男ではない今の初瀬の身体。
「…………」
クローゼットの扉裏の鏡の前で、初瀬は目の前の「自分」の着こなしをチェックして、鏡の中の「男物の服を着た少女」を数秒じっと見つめ返してから、パタンとクローゼットを閉めた。
健全とは言えない思考に囚われながら、初瀬は脱いだ服を片付けて、テーブルと座布団を用意する。準備が終わると、デスクチェアに腰を下ろして、携帯電話を手に取って、何度も何度も時間を確認する。
今日これから、初瀬の部屋に同い年の女の子がやってくる。
春日井エリナ。
初瀬にとって、特別な大切な女の子の一人。
初瀬とは小学校からの長い付き合いの、ずっと一緒に成長してきた少女。なのに、初瀬が男ではなくなってから一度だけ病院で顔を合わせて、それから一週間も会えていない少女。
初瀬は彼女にぶつけたい気持ちも言いたいこともたくさんあるが、彼女の気持ちは想像しかできない。
初瀬が女になってしまったことを、おそらくまだ受け入れ切れていないエリナ。ずっと男の子と女の子として一緒に育ってきた初瀬が、男ではなくなったことを、同性になってしまったことを、どれも受け入れ切れていないエリナ。
だからすべてはもう直接会って話してみてからだと初瀬は思っているが、病院で会った時は一方的に逃げられたし、メールで会う約束をするだけでも何日もかかったし、今日の対面がどう転ぶかかなり不安混じりだった。エリナの気持ちを深く考え出すと、今の自分の身体へのネガティブな衝動も湧き上がってきて、重く懊悩してしまいそうになる。
そんな初瀬だったから、午後三時四十五分頃、家のインターホンが鳴り響くと即座に反応した。
心臓が早鐘を打ち始める。
初瀬は携帯の電源を切って、二階の自分の部屋を出てぱたぱたと階段を下りた。
走ろうとすると、まだ身体が重い。身体のバランス感覚も万全ではなく、時々思考と動きが食い違って、油断すると転びそうになる。自然に震えて痛いようなうずくような刺激と質量を感じさせられる胸やお尻の脂肪や長い髪が、今日はいつも以上にひどく忌々しい。
念のために、初瀬はダイニングに立ち寄って、インターホンの来客映像用の小さな液晶モニターを確認する。
そこに見えたのは、予定通りの相手だった。
太陽が見えそうで見えない薄曇りの空、ぽつぽつとした小雨の中で、傘をさして佇む、セミショートの髪の少女。
約一週間ぶりのエリナ。
予定通りなのに、見慣れている相手なのに、初瀬は彼女の姿を見た瞬間、胸が高鳴った。初瀬はもう冷静になれずに、急いで玄関に向かい、玄関のドアを開け放った。
エリナは家に帰らずにまっすぐ来たようで、学校の夏の制服姿だった。今日はベストはなく、左胸ポケットに校章の刺繍が施されている白い半袖オーバーブラウスと、白黒チェックのプリーツスカートと、白いハイソックスに濃褐色のローファーという格好。
傘をさしてスクールバッグを持っているエリナは、少し強張った表情で、初瀬と目を合わせないようにしながら、玄関先で立ち尽くしていた。
『あぁ……、やっぱり、おれはエリナも好きなんだ』
そんな彼女を真っ向から見た初瀬は、唐突に強く実感していた。二人の女の子を同時に同じだけ好きだなんて、普通じゃないと思うが、溢れる気持ちは止まってくれない。
この気持ちは、やはり恋なのだろうか?
「よっ。待ってたぞ」
脳裏に浮かんだ言葉を深く考えるより早く、自然に初瀬の桜色の唇が動く。高く澄んだ少女の声で、少し興奮がにじんだが、エリナに対する、いつも通りの初瀬の態度。
エリナはちらりと、ラフなカットソー姿の「今の初瀬」を見て、小さく頷く。
「……こんにちは」
「お、おう。まああがれよ」
「……おじゃまします」
一瞬躊躇した後、エリナは傘を閉じて家に入る。
半身になってエリナを通した初瀬は、玄関のドアを閉め直して動いた。前に流れてきた二束の長い髪をわずらわしげに後ろに払って、意識して陽気な声で言う。
「先におれの部屋に行ってろよ。ジュース持ってくから」
「……ありがとう」
初瀬は普段通り動いているつもりだが、エリナの態度はかなりぎこちない。この日この時までに、エリナにも考える時間はあったはずだが、今の初瀬と面と向かってみると、やはり以前通りとはいかないのだろうか。
今の初瀬は、声も見た目も性別も、以前とはまるっきり違う。エリナも一緒に選んだ「初瀬」の服を着ているのに、その男物の服装に表れる身体つきは、明らかに女性のもので。顔も声も肉体のすべてが、初瀬自身の目から見ても、まだ見慣れぬ少女。なのに、見慣れぬ少女なのに、これが今の初瀬。
高揚しかけていた初瀬の感情も、エリナの様子に不安定に揺れる。初瀬はもどかしさと不安を感じながら、林檎ジュースを二人分用意して、二階の自室へと戻った。
初瀬本人の自覚は薄いが、まだ退院して三日目なのに、自然にだんだんと新しい匂いに侵食されつつある、今の初瀬の部屋。
室内照明の明るい光の下で、エリナは少女趣味なカバーに包まれた座布団に座って、左手で右手をそっと握りしめるようにして、壁のジグソーパズルの方を見つめていた。
その表情が、とてもきれいに見えて、どこか愁いを帯びているように見えて、初瀬は胸の鼓動がいっそう高鳴った。
初瀬が中に入ってくると、エリナはすぐに表情を消して、うつむきがちに視線をそらした。
「待たせたな」
ドアを閉めた初瀬は、無駄に偉そうに言って、ジュースの入った二つのグラスをテーブルに置く。一瞬迷った後、床には座らず、エリナの斜め前に位置するベッドに腰掛ける。
エアコンの小さな稼動音が響くだけの静かな室内で、初瀬はどう切り出せばいいのか逡巡した。無意識に首の肌を軽くつまむように撫でながら、一生懸命に言葉を捜す。色々言いたいことはあったはずなのに、言葉が出てこない。
先に動いたのはエリナだった。
急に、彼女は立ち上がった。初瀬は一瞬また逃げ出す気かと思ったが、彼女の行動は違っていた。
「なにも言わないで、黙ってわたしの話を聞いて」
エリナは、しっかりと目をつぶって、片手でもう一方の手を握りしめていた。
エリナにとって、今の初瀬の声を聞いてもそれが初瀬とは思えず、姿を見ても初瀬とは思えないから、だから彼女は目をつぶって、初瀬は口を開くなということなのだろうか。
腰を浮かしかけていた初瀬は、エリナは見ていないと承知の上で、無言で頷いた。ベッドに改めて腰を下ろす。
数秒の沈黙。
初瀬はベッドに座ったまま、ごく近くにいるエリナを見上げる。
学校の夏の白い制服に包まれた、すらりとしたエリナの身体。
握りしめたこぶしが、お腹の前で不安そうに震えている。
顔は目をそらすように少し下向きで、表情も硬く強張っている。
普段の気の強そうな印象が消えて、優しげな顔立ちが気弱に揺れて、今にも泣き出しそうにも見える表情。
初瀬は『なんでそんな顔するんだよ』と心の中で呟く。
初瀬の中に、不安とやるせなさが入り混じる。エリナがそれだけ初瀬を気にしてくれているということなのだろうが、どこか痛々しくて、見ていられない。
初瀬のその視線に気付いているのかいないのか、エリナは切なげに、「初瀬」と至近距離で向き合っているかのように顔を上向きにして、思い切るように、言葉を紡いだ。
「わたしは、今も、ずっと、初瀬が好きです」
「…………」
突然すぎて、初瀬は一瞬、何を言われたかわからなかった。
が、すぐに理解して、心も表情も歓喜に染まった。
なのに、エリナは初瀬を見ていなかった。彼女の目は閉ざされたままで、今の初瀬を見ていない。
「……でも、ごめんなさい……」
エリナは初瀬の視線から逃げるように、目を閉じたまま顔を横に背ける。エリナの手に、ぎゅっと力が入る。
「わたしは、やっぱりあなたが初瀬だなんて思えない。頭ではわかるけど、けど、見た目も声も全部違いすぎる。あなたが初瀬だなんて思えない」
顔を強張らせた初瀬を見ないまま、エリナはもう一度「でも」と、震える声で言葉を続ける。
「でも、がんばって慣れるから。どんなに見た目が変わっても、身体が変わっても、初瀬は初瀬だって、わたしもちゃんとそう思えるようにがんばるから」
「…………」
「すぐには無理だけど、だから、お願いだから……、もう少しだけ、待って欲しいの。――今は、会うのがつらい」
エリナが初瀬の性転換病を知らされてから、約一ヶ月。
彼女が初瀬のお見舞いに来て、初瀬の今の姿や声を認識してから一週間。
その間に、エリナは色々なことを考えさせられて、様々なことを思い悩んだのだろうか。
だが、思い悩んだのは、思い悩んでいるのは初瀬だって同じだった。
初瀬は立ち上がった。
「っ……」
音でその動きを察したのか、エリナは身体を強張らせる。一瞬目を開いてうつむいて、半歩後ろに下がるしぐさを見せる。
不安そうな、苦しそうな、切なそうな、今にも泣きそうな、エリナの顔。
「いきなり勝手なことばっかり言うなよな」
泣きたいのは初瀬の方だった。
「おれだってなりたくて女になったんじゃねーよ。おまえがいて、みあがいて、男のままがよかったに決まってるだろ」
言い募るうちに感情が溢れてきて、初瀬は前に出て強く怒鳴った。
「なのにおまえにそんなこと言われて、おれにどうしろっていうんだよ!」
初瀬の口調と、初瀬の言葉。なのにその声は、高く透明感のある少女の声で。
まぶたを震わせて顔を上げたエリナは、目の前の「見知らぬ少女」の姿を見て、凛と睨んでくるそのロングヘアのきれいな女の子を見て、くしゃっと顔を歪めた。
「わたしだって、わからないわよ……」
「甘えるなよ。おまえがどう思ってようと、おれは待ってなんかやらないぞ。エリナに遠慮なんて絶対してやらないからな」
「だって、だって初瀬だなんて思えないんだもの!」
見知らぬ顔で声で初瀬の言葉を言う目の前の少女に、エリナも感情的になって叫んだ。
「声だって顔だって、全然違うんだもん! あなたが初瀬だなんて思えない!」
「うっさい! そんな他人を見るみたいな目でおれを見るな! おれはおれだ!」
初瀬も感情的に怒鳴って、衝動的にエリナの身体を抱きしめた。
「っ……!」
思わず硬直するエリナの腰を抱いて、初瀬は強引に動く。
彼女の側頭部に片手をあてて引き寄せて、そのままエリナの唇に自分の唇をぶつける。
突然の口づけに、エリナは目をぎゅっとつぶってあがく。エリナの手が、「見慣れぬ少女」の胸を強く押し返そうと動く。
瞬間、初瀬は唇を離した。
「好きなんだ。おれはおまえが好きなんだ」
切なげな愛おしげな初瀬の声。
なのにそれはやはり、繊細に澄んだ少女の声で。
あまりにも残酷な言葉に、エリナの瞳から涙が溢れた。
今の初瀬は、もう以前の初瀬の身体ではありえないと、見ればわかる、さわればわかる、声を聞けばわかる。抱き合う身体の大きさも感触も、そこに感じる匂いも柔らかさも、何もかもかつてとは違う。
今の初瀬の身体は、以前の初瀬の男性の身体とは絶対的に違う、女性の身体。
気持ちを言葉にした初瀬は、力の抜けたエリナの身体を強く抱きしめて、キスもやめなかった。
再び重なる、二人の唇と唇。
ただ単に唇を重ねるのではなく、初瀬はそのまま、エリナの口の中に舌をさし入れた。
エリナの拒絶がないことに無意識に安堵して、初瀬はさらにキスを深めて、いつもいい匂いがするエリナの身体を掻き抱く。そのままむさぼるように、初瀬はエリナの瑞々しい口唇を味わう。
中学の頃に、エリナと一緒に、二人で実践して学びあって教えあったキス。
以前なら、エリナが上向きになってキスをしていたのに、今はほぼ同じ高さにある二人の唇。
「初瀬なのに、女になるなんて、ひどいわ……」
エリナは初瀬のキスに応じずに、顔を背けて、ぽろぽろと涙をこぼした。
彼女の身体を優しく抱きしめながら、初瀬も切なげにまっすぐに言い返す。
「どんなに身体が変わったって、おれはおれだよ」
「だって、だって初瀬だなんて思えない! 変わりすぎよ! こんなの、ひどすぎる……!」
エリナは子供の頃のように泣き始めた。声に出して泣きじゃくって、以前とは違いすぎる初瀬の身体にしがみつく。
彼女の髪にキスをしながら、初瀬も堪え切れなくなって、いつのまにか瞳に涙が浮かんでいた。
「……ああ、ひどいな」
まつげが震え、初瀬の頬を一雫の涙がつたい落ちる。
ぎゅっと抱き合って胸と胸が密着しても、かつての初瀬の筋肉質な硬さはどこにもない。二人の胸部のまろやかなふくらみが、着衣ごしに弾力的に形を変えて、お互いの乳房を柔軟に刺激し合う。
ぐいぐいと初瀬が腰を押し付けようとしても、そこにはもう男性の物理的な証も存在しない。以前とは全く違う形で、お互いの柔らかな身体がなだらかに触れ合う。
もう開き直っているつもりとはいえ、初瀬も望んでいなかった現実。できれば起こってほしくなかった出来事。初瀬だって、女になんてなりたくはなかった。元の男の身体のままでいたかった。
「どうして初瀬なのよ! 初瀬がこんなになって、わたしどうすればいいの!」
「どうもしなくていいよ。おまえはずっとおれの傍にいればいいんだ」
「っ、そんなの……! そんなの!」
「おれはおまえがいないとイヤだ」
「ひどい! 初瀬じゃないのに、そんなこと言うのひどい!」
初瀬はエリナの身体を抱きしめたまま、体勢を入れ替えるように、彼女を押すように身体を動かした。
エリナは泣きながら、「初瀬」に抱きつく腕にいっそう力を込める。
さらに初瀬が動いて、足がベッドにぶつかってエリナの膝が崩れて腰が落ちて、二人ベッドに倒れこんだ。
「おれはおれだよ」
押し倒して真正面から見下ろして、初瀬はエリナの唇に自分の唇を重ねる。もう何も言わせないとばかり、黙っておれを感じろというふうに、初瀬はエリナに熱い口づけをする。
初瀬はそのまま衝動的に、半ば強引に、エリナの身体を求めた。
身体の関係を持てば解決すると、初瀬にそう安直な発想があったわけではない。
だがエリナが今もずっと好きと言ってくれたことが、初瀬の背中を押していた。過去に身体の関係があっただけに、エリナが身体でわかってくれれば絶対にいい方向に動くと、無意識にそういう思いもあった。これまで一緒に過ごしてきた時間の中でずっと自然に育まれてきた、本人には自覚の薄い、ある意味自分勝手な信頼と甘え。エリナが拒絶しなかったからなおさらだった。
女の身体になっても初瀬は初瀬なのだと、エリナの心と身体の両方でわかってもらいたい。
だから、すべては自分の身体の問題が元凶だから、初瀬は真っ向からエリナにそれをぶつける。文字通り「身体でぶつかる」手段しか、初瀬は思いつかなかった。
ベッドの上で、何度もエリナの名前を呼んで、全身で気持ちを伝えて、初瀬はエリナのすべてを求める。
彼女の気持ちを思い遣って、または自分の弱さゆえか、まだ今の自分の裸をさらけ出す決断まではできなかったが、初瀬はエリナの服を優しく剥ぎ取って、ひたむきに丁寧に、時には激しく、彼女の身体と心を精一杯愛す。
彼女と触れ合えば触れ合うほど、女になっている自分の身体を思い知らされて、もう二度と以前のようには愛し合えない現実に初瀬も泣きたくなったが、男のままならとどうしても思ってしまうが、それはもう言っても胸が苦しくなるだけで意味がないことだった。
エアコンが程よく効いているのに、二人の肌は淡く上気して、しっとりと汗が浮かぶ。
二人の少女の体臭が熱く溶け合って、ほのかに甘く、部屋全体に広がっていく。
初瀬は、初瀬自身の手によって乱れるエリナのすべてに興奮しながらも、自分の快感よりも彼女の快感を優先して、態度と言葉と行動で、彼女に愛情を伝える。
エリナは、初瀬の名前を何度も何度も呼びながら、ずっと最後まで泣いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつも家族がいない時間帯の、初瀬の家の、初瀬の部屋で。
濡れた指先を口に含むように舐めとって、余韻に包まれて横たわるエリナを抱きしめていた初瀬は、克己心を振り絞って身体を起こした。二つに束ねられたままの初瀬の長い髪が、半裸のエリナの肌をくすぐるように撫でる。
六月半ばの月曜日の夕刻。いつのまにか外では雨が止んで、雲の切れ間から夕暮れの太陽の光が地上に射し込んでいる。
閉ざされたレースのカーテンごしの光と室内照明の明るい光の下で、服を着たままの初瀬は、自分の長い髪を横に払い、白いキャミスリップの下着姿のエリナの瞳に唇を寄せて、彼女の涙をそっと吸った。身体にくすぶる情熱を抑えきれずに、初瀬はエリナに体重をかけないように覆いかぶさって、舌で瞳を舐めるように、彼女の目に甘いキスをする。
きれいな下着をはだけさせてベッドに横たわるエリナは、吐息をこぼして身体を震わせたが、ただなすがままに、初瀬の下でじっとしていた。
紅潮していたエリナの頬は、少しは落ち着いてきているが、涙の跡が痛々しい。
初瀬が見つめると、エリナは目の前の「見慣れない少女」の瞳を数瞬見返して、すぐに視線をそらすように、切なげに顔を背けた。間近にある顔も、触れ合う身体の柔らかさも、そこに感じる匂いも、やはりもう以前の初瀬ではありえない今の初瀬。
再び涙を流すエリナを、初瀬は横から抱きしめるように、優しく包み込むように、彼女の髪をそっと撫でた。
「……ごめんな。女になんかなっちまって」
泣いていたエリナは、はっとしたように顔を上げた。
「初瀬は悪くない! 初瀬だって、初瀬だって苦しいんでしょ!? 初瀬はなんにも悪くない!」
「おれが苦しいのは、おまえが苦しんでるからだよ。おれだけの問題ならどうだっていいんだ。おまえが笑ってくれるなら、おれの問題なんてどうだっていい」
「っ……」
エリナの目から、涙がいっそう溢れ出す。
初瀬はまたもらい泣きしそうになって、ちょっとだけ笑った。泣きそうに笑った。
「あぁ、もう。ほら、もう泣くなよ」
初瀬に優しくされても、エリナの涙は止まらない。
初瀬も感情が溢れて止まらなくなりそうになって、彼女をそっと抱き寄せた。
エリナは抵抗せずに身をゆだねてきて、お互いの胸のふくらみ同士もまた自然に触れ合う。初瀬は胸の奥に衝動をくすぶらせたまま、エリナのぬくもりと香りと柔らかさとに溺れそうになりながら、わざと少し大げさに、彼女の太ももからお尻を撫でた。
「中学の時より成長してるのは、身体だけなのか?」
以前とはやはりどうやっても違う高い声で、冗談半分に、初瀬は言う。
エリナは首を横に振ったが、泣き止まなかった。
エリナの手が、ぎゅっと初瀬の服をつかむ。もう何もかも男ではない初瀬の身体に、やるせなくすがるように、抱きつくように、エリナの腕に力がこもる。
初瀬は甘く切なく微笑んで、ゆっくりと手を動かした。
エリナの身体を優しく抱いて、薄い下着ごしにその背中を撫でて。はだけている下着のストラップをかすめるように、なめらかにむき出しの肩までそっと手のひらをすべらせて。そのまま首筋をくすぐって、耳に触れて、春よりも長い髪に指を通して。
初瀬はただただひたむきに気持ちを込めて、目の前の愛しい少女を抱きしめ続ける。
「まったく、おまえはベッドの中ではすぐ泣き虫に戻るんだな」
しばらくして彼女の涙が少し落ち着いてきてから、初瀬は心と身体にくすぶる感情を抑えて、またわざとからかうようなことを口に出した。
「……初瀬が、泣かせるようなことばっかり、するから……」
「あー、はは、泣いてるおまえは可愛いからな」
「っ……」
エリナの手が、身体ごと微かに動く。初瀬の華奢な背中を、カットソーごしにきゅっとつまむ。
「痛い痛い、ギブギブ」
初瀬は甘やかに笑って、エリナの背中をぽんぽんと叩くように撫でた。
「……ほんとに、初瀬なのね……」
まだ少し涙混じりエリナの声。泣きすぎたのか、微かにかすれている。
初瀬は笑いを引っ込めて、真顔で頷いた。
「ああ、どんな身体になったって、おれはおれだよ」
「……ごめんなさい……。わたしは、やっぱりすぐには無理……。頭ではわかってるけど、どうしてもダメなの……」
「…………」
好きな男が女になったという状況は、本当にどれほど重いのか。
だがそれでも、初瀬は信じたかった。今こうやって一緒にいてくれるということは、エリナも心のどこかではわかってくれているのだと、感じ取ってくれているのだと、初瀬の身体が女になってもちゃんと心も身体も愛し合えると、初瀬はそう信じたかった。
「……ああ。さっきは怒鳴っちまったけど、待つよ。嫌うってわけじゃないなら、いくらでも待つ」
「……イヤ」
「んっ? なんだよ」
「……待たないで。初瀬は近づいてきて。わたしを、離さないで……」
エリナは切なげに目を開いて、まだ涙の残る瞳で「今の初瀬」を見つめて、まっすぐに言う。
その表情があまりにもきれいで、初瀬は見惚れて息を呑んだ。
胸の奥から、強い感情が溢れてくる。
心と身体が震えて、頬が上気して、初瀬は満面の笑顔になった。
「ああもぉおまえ可愛すぎ……!」
「んっ……」
初瀬は衝動に任せてエリナを抱きすくめた。強引に唇を奪い、唇で唇を甘噛みして、また上からのしかかってキスの雨を降らせる。
が、エリナは甘んじてそれを受けながらも、初瀬を軽く押し返した。
「ねぇ、待って、待って」
「イヤだ、もう待たない」
「みあとは、どうしてるの?」
「…………」
不意打ちだった。初瀬は隠すつもりはなかったが、どこか後ろめたくて、気持ちがとたんに波風を立てた。
普通に考えたら、これはこれで修羅場になる要因の一つ。むしろ病気で女になったことよりも、関係がこじれて嫌われてしまうかもしれないこと。
「……まだ、たいしたことはしてないよ」
「……まだ?」
嘘はつきたくない。嘘だけはつきたくない。
初瀬はそっと深く息を吸って、一息に言い切った。
「おれはみあも好きだ」
「っ……」
わかっていたのかもしれないが、エリナの表情が強張った。
「おれは、おまえらが二人とも好きなんだ。……たぶん、恋愛感情で」
「…………」
エリナの顔が複雑に歪む。
「我ながら、ひどい男だとは思う。でももうエリナもみあもだれにも渡さない」
「……みあは、知ってるの?」
「おれがおまえも好きだってことは、みあの方からバレバレだったよ。……昔のことは、言ってない」
「…………」
「おれはおまえを、もう絶対離さない」
きっぱりと強く言い切って、初瀬は再びエリナの唇を奪う。
エリナは、また涙を流しながらも、抵抗はしなかった。自分から積極的になることもなかったが、切なげにじっと初瀬に身をゆだねていた。
エリナの態度がどんなにぎこちなくとも、初瀬は初瀬として、素直な気持ちのままエリナに接すればいい。そう感じた初瀬はもう強気だった。
キスの間中、エリナが泣いていることに、初瀬は当然気付いていた。きゅっとシーツを握りしめるエリナは、今自分は初瀬と抱き合っているのだと、今自分を好きだと言ってキスをするこの少女は初瀬なのだと、ずっと自分にそう言い聞かせているような態度で、初瀬のなすがままで。
初瀬としては、今はそれでもしかたがないと思う。初瀬が男ではなくなって声も顔も身体も大きく変わって女になったというだけでも重いのに、二股宣言までぶちかましたのだ。拒絶されていないだけでも奇跡のようなものだった。以前のようにベッドの中で自然に笑い合ったりはまだできないが、こんなにも初瀬の接近と接触を許してくれるだけでも、充分嬉しいことだった。
今はただただ素直な気持ちでエリナを愛せばいいと。そう感じる初瀬は、だからありのままの自分で彼女に接する。
何度もエリナの瞳を見つめて、彼女にも半ば強引に「今の自分」の目を見つめさせて。
女になろうが初瀬は初瀬なのだと、どんなに身体が変わっても初瀬は初瀬なのだと、初瀬は真っ向からエリナに押し付ける。時間をかけて濃厚な口づけをして、好きだという気持ちを言葉にして、昔のことも引き合いに出して、泣いて答えない彼女の返事を強引に聞き出して、初瀬はエリナの心と身体と未来のすべてを求める。
彼女の身体を感じれば感じるほど、やはり否応なく今の自分の身体も実感させられて、もう二度と男の身体で愛してあげることもできないと思い知らされるが、初瀬も真っ向から自分の現実と向き合う。
今の自分の身体が女で、正面から抱き合っても一つになれない身体が嫌でつらくて苦しかったが、同性愛の不条理さまで感じさせられたが、一方的にでもエリナを愛することに夢中になれた。初瀬の手によって甘い声で泣いて乱れるエリナに、初瀬の身体もじんと火照ってうずいて、一緒に気持ちよくなりたかったが、エリナが少しでも満たされてくれれば、今はそれで充分初瀬の快感だった。何度も何度も初瀬の名前を呼んで泣きながら抱きついてくるエリナが、健気で色っぽくて可愛くて、とても愛おしかった。
好きな女の身体を自由にする興奮と悦びと、男の支配欲が歪に満たされることからくる昂揚。男の身体の愛し方ができないことへのやるせなさと、今の自分の肉体が感じる女の快感と精神的な暗い充足感。
『エリナが泣くのも笑うのも、全部おれのせいであればいい』
時折強い衝動を胸に抱きながら、初瀬はエリナの身体に口づけを落とす。
エリナのすべてに向かう強い欲情を隠さずに、初瀬は彼女の下着も靴下も剥ぎ取って、生まれたままの姿の彼女の全身に余すところなくキスをして、丹念に彼女の身体も愛す。その香りと柔らかさとを味わって、白いなめらかな肌に唇で小さな痕を残して、初瀬は今はただひたすら、目の前の大好きな女の子に熱中する。
熱く呼吸を弾ませて、時々自分のしとやかな指を彼女の口の中にさし入れて、それに集中させて、繊細な指が彼女の濡れた口唇に包まれる感触に、初瀬も身体を震わせて、頬を上気させて。もう生まれたままとは言えない自分の裸を、エリナの素肌に直接重ね合わせたい欲望を辛うじて堪えて、それでも今だけは彼女の身体に溺れて、彼女のしっとりと火照った肉体に、今の自分の柔らかな胸や腰を着衣ごと押し付けて、全身で彼女を感じて。
だんだんと、エリナは声を堪えようとしたようだが、堪え切れていなかった。エリナは泣きながら、初瀬にしか聞かせたことのない声を出して、今の初瀬にぎゅっとしがみついてきた。
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初稿 2012/03/05
更新 2014/09/15