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Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

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  その五
   二 「二人の放課後」


 帰りのショートホームルームの担任教師の話によれば、来週のロングホームルームの時間は、十月下旬の生徒総会についての話し合いと、貴子の予想通り十一月の樟栄祭のクラス企画決めとが行なわれるらしい。
 今年度の樟栄祭は、十一月五日と六日の土日の二日間という日程になっているから、来週計画を立ててちょうど一ヶ月ということになる。十月半ばには中間試験が挟まっていて、大がかりな準備が認められるのはその後だが、試験に悪影響がでない範囲で事前準備を行なう分には学校側も推奨している。なんの検討もなくロングホームルームでの話し合い当日を迎えるクラスもあるようだが、すでに自発的に企画を決めて動き始めている気合の入ったクラスもあるようだった。
 穂積貴子と脇坂ほのかが所属する二年二組は、特に急ぐでもなく日程通りのペースだったが、二学期になってからたびたび話題には出ていたから、好き勝手な意見のようなものはぽつぽつと出始めていた。帰りのショートホームルームが終わるなり貴子の元にやってきた恋人も、「貴子はなにやりたい?」と笑顔で話題をふってきた。
 貴子は性格的に、この手のイベントは真面目に協力はするが、積極的に自分から動くことは滅多にない。がんばってさりげなく逆に問い返して、彼女の意見をアレコレと拝聴した。
 「ほのかさん、お待たせ」
 そんなふうにのんびりしていると、貴子の席の傍に、ほのかの友人たちがやってきた。
 「あ、もうみんな準備おっけー?」
 「……ええ」
 ほのかが笑顔で振り向くと、声をかけてきたその女子生徒は、ほのかの横の貴子をちらりと見やって、どこか気にくわなそうな顔で頷く。
 「うん。じゃ、貴子、靴箱までみんな一緒にいこ」
 基本的に排他的で人と打ち解けるのに時間がかかる貴子とは違い、ほのかには友人が多い。その友人たちにしてみれば、ほのかの恋人になった貴子の存在は、やはり小さな要素ではないらしい。ほのか本人も、恋人と自分の友人たちとの関係を無視してはいなかった。
 恋人が部活に行く前の限りある時間、貴子としては恋人と二人きりがよかったのだが、ほのかは昼休みにでも、友人たち――ほのかと同じ陸上部の菊地さんを筆頭に、西条さんや遊佐さん――と示し合わせていたのだろう。彼女はにこやかにそう言うと、貴子の手を取って立ち上がらせた。
 「菊地さんたちのこと、いまさら紹介するまでもないよね」
 「……うん」
 曖昧に頷く貴子に、ほのかは歩き出しながらちょっと苦笑気味に笑う。貴子と繋いだままの自分の手を、貴子の頬に伸ばした。
 「貴子、好きになれとまでは言わないけど、みんなとももう少し仲良くしてくれると嬉しいな」
 「別に……、普通にしてるつもりだけど……」
 「あれのどこが普通なのよ」
 「全然普通じゃないじゃん。いっつもほのかさんにべったりくっついちゃって、なに考えてるんだか」
 頬を撫でられた貴子はドギマギと言葉を返したが、先日の昼休みの件もあるせいか、即座につっこむ菊地愛梨や西条真子の言葉にはトゲがある。遊佐和泉もぼそりと言葉を付け加えた。
 「そうよ、男だったくせに……」
 「あは、遊佐さん、それぼくにも言ってる?」
 「え、あ、脇坂さんは別よ……!」
 ほのかが茶々を入れて、遊佐和泉は少し焦るが、愛梨たちは止まらない。みな口々に、ほのかの前での貴子とそれ以外の貴子と、おまけに以前の「貴之」との違いを言い立てた。
 愛梨たちは事前にほのかに言い含められていたようだが、彼女たちの頭には遠慮という文字はないようで、貴子に向ける視線は露骨に非好意的だった。
 貴子としては結構気に障るのだが、さすがに恋人の反応も気になるし、恋人の前で恋人の友人に簡単にケンカを売るつもりはない。無言でちらちらと、恋人の様子だけを窺った。
 ほのかはそんな貴子とは対照的だった。むしろ愛梨たちに同意するように笑って、貴子の手を軽く引っ張った。
 「やっぱり、貴子って友達作るのへたくそっぽいよねー。ごめんね、みんな。でも、貴子こんなだけど、いじめないであげてね」
 「い、いじめなんてしないわよ」
 「でも気に入らないんでしょ?」
 「それは! この子が自分で言ったのよ、ほっといてくれって」
 「うん、困った子だよねー、ぼくの前ではこんなに可愛いのに」
 うりうり、とばかり、ほのかは貴子の肩に、自分の肩を押し付けるように動く。
 「ぁぅ……」
 貴子は横に押されて、ちょっとよろけた。
 あたふたしつつ、貴子は困った子とか可愛いと言われて内心複雑だったのだが、客観的にはまたいちゃついているようにしか見えない。菊地愛梨たちはさらに不快そうな顔をした。
 「ね、ぼくがみんなとも仲良くしろって言ったら、貴子、仲良くする?」
 数秒、貴子はちょっと考える。が、貴子が結論を出す前に、ほのかはうーんと唸った。
 「でも、それってなんか違うよね。みんなも、誰かに言われて無理に仲良くされても嬉しくないよね」
 「当たり前じゃない」
 「いやいやされたらもっといらつく」
 「うーん、やっぱり貴子がもっと積極的になってくれると楽なのに」
 『……そうしないと、脇坂さんが嫌いになるっていうのなら……』
 さっきのほのかの問いに貴子が出す結論は、声にはならない。『でも、別に脇坂さん以外に積極的になってもな……』という馬鹿正直な感想も、声になる前に遮られた。
 「貴子の普通って、なんかみんなの普通と違うからなぁ」
 それは褒め言葉なのか、貶し言葉なのか。
 どういう意味かよくわからずに貴子が何も言えずにいると、菊地愛梨と西条真子は「ああ」と何かに同意するように、と同時にちょっと気に食わなそうに頷いた。
 「それはあるわね、この子はっきり言って変だし」
 「あは、ほんとにはっきり言うね」
 「だって、無愛想だし、ほのかさんの前と他とじゃ全然態度違うし、態度ころころ変えて、なんかむかつくわ。だいたい、他人なんて眼中ないって顔して、何様のつもりよ」
 「そうよ、ほのかさんにいっつもくっついちゃって、うらやましすぎよ」
 さすがはほのかの友人と言うべきだろうか。意外に貴子をよく見ているらしい菊地愛梨は、本人を前にして堂々と憎まれ口をたたく。西条真子の発言は、ちょっとどこか角度が違っていたが、貴子が気に食わないという態度はいっぱいだ。
 その後ろで遊佐和泉も「……TSっ娘ならそれらしくしてればいいのに」とぼそりと呟いていたが、この発言は誰の耳にも届かなかった。貴子が聞き取っていれば「それらしくってどんなだよ」とシニカルな感想を暗い気分で抱いたかもしれない。
 そんな愛梨たちの言葉を、ほのかは素直な感想と受け取ったのか、みなを非難するでもなく楽しげに笑った。
 「やっぱりあれかなぁ? ぼく以外どうでもいいって感じ? だったらちょっと嬉しいかも、とか思っちゃうぼくって、結構ダメダメ?」
 ほのかは冗談めかしているが、あながち間違いでもない意見だった。笑顔で嬉しいと言われて、貴子の顔は微かに熱を帯びた。
 「ダメダメすぎ!」
 「そうやってほのかさんが甘やかすからこの子も調子に乗るのよ」
 「えー、でも貴子に甘えられるの好きだしー。むしろ、貴子にはもっとぼくに甘えて欲しいんだけどねー?」
 ほのかは貴子を見やって、貴子の腕に自分の腕を摺り寄せ、貴子はまたあたふたする。
 臆面もなく言うほのかに、さすがに菊地愛梨たちも少し呆れたような、彼女たちの方が気恥ずかしそうな顔になった。昨日今日と教室でさんざん見ているはずだが、間近で見せつけられるとまた違うらしい。
 「……ほのかさんも、人前でこんなにベタベタする人だなんて思わなかったわ」
 「あは、うん、ぼくも思ってなかったよ」
 貴子と腕を組むようにしながら、ほのかは楽しげにニコニコと横を向く。
 「みんなも恋人できたらきっとわかるじゃないかな? もっとくっつきたくなるし、楽しいよ、すごく。あ、西条さんは前の彼氏とどうだった?」
 「あ、あたしは、そんなべたべたしたことないよ」
 ほのかに話をふられて、西条真子は少し慌てたように言い返したが、あまり話したくないのかすぐに友達を生贄に差し出した。
 「それ言うならあたしより愛梨じゃん。新見のヤツと付き合い始めればちょーバカップルになりそうだし」
 「ちょ、真子!」
 「あは、菊地さんも、そろそろ自分からコクったりしないの?」
 「な、ほのかさんまで!」
 貴子が知らない名前が出て、話が少し変わった。
 ちょっと強がる菊地愛梨を、西条真子が「愛梨もいい加減素直になればいいのに」と笑って追い詰め、愛梨も愛梨で言われっぱなしにはならずに、夏に彼氏と別れたばかりの真子に反撃する。途中からは、あまり口数が多くない遊佐和泉の好きな人の話にもなったりして、廊下を歩きながらみな賑やかに騒ぐ。ほのかもからかうようなことを言って、笑顔を絶やさない。
 貴子は恋人の身体を身近に感じてドキドキしていたが、話がそれて少しだけ気を抜いていた。同級生の女子たちの、時々際どい方向にも流れたりする姦しい会話にはついていけないし、ついていくつもりもないが、恋人が楽しいと言ってくれたのは嬉しくて、恋人との時間を満喫する。
 友人たちと楽しげに笑う合う、自分と手を繋いだままの恋人のきれいで可愛い声が、貴子の耳に甘く心地よく響く。
 彼女の相手が男なら嫉妬や偏狭な独占欲が先に立つ貴子だが、相手が女子なら許せるのは、男女差に対するある種の偏見の影響や、「男の身勝手さ」とでも言うべき理屈なのだろうか。ある意味貴子そっちのけの状況だが、ほのかは他の女子と話をしていても、以前とは違って今はちゃんと貴子を気にしてくれている。恋人の身体の心地よいぬくもりや感触や甘い香りに、貴子は邪な欲望が少し首をもたげたりもするが、今はまだ一緒にいるだけで充分満たされていた。
 愛梨たちも、さすがに少しはほのかに遠慮したのか、それともそんな貴子の態度が「恋人の交友を邪魔しない控えめでつつましい態度」に見えたのか、貴子にそれ以上ちょっかいをだしてはこなかったから、貴子は恋人だけに夢中でいられた。
 ほのかの友人たちとは、貴子としてはやはり簡単には仲良くなれそうにないが――正直に言うと愛梨たちの存在はやはり邪魔だが――、ほのかが傍にいてくれればほとんど気にならない。ほのかが貴子の心理を知れば「こらこら、もうちょっと気にしようよ。せっかく機会作ったのに、少しは自分からも仲良くしようとか思ってくれないの?」と笑うかもしれないが、この時の貴子はその可能性に思い至らなかった。ただでさえ、男のままであれば確実に違っていたであろうポジションに、今の貴子は立っている。自然に距離が縮まるにしろ、今のまま打ち解けないにしろ、ほのかも言っていたように、無理をしてもしかたがない。
 少し未来の話をすると、貴子がそんなスタンスだから、菊地愛梨たちとはなかなか距離が縮まらずに時が流れることになるのだが、貴子としては、自分のせいで彼女の友達関係にヒビが入ったりしていないようだから一安心で、今はそれで充分だった。
 『でも、脇坂さんがおれを特別気にしてくれてるなら、それはそれで嬉しいかも。……とか思うおれも、結構ダメダメなのかな……?』
 貴子は内心で、ほのかが使った表現を真似して色々考えて、微かに頬を緩ませる。変な気を遣って欲しくないと思うのも本音だが、自分に特別に気を配ってくれるならそれはそれでとても嬉しいのも、貴子の本音。
 その分、あっという間に一階の昇降口に到着してしまうと、とても名残惜しくなる。
 「えーん、部活なんてサボるから、貴子も図書委員サボろうよー」
 ほのかも貴子と同じ気持ちがあるのか、彼女は嘘泣きをして抱きついてきたが、愛梨が呆れたようにほのかを叱り、貴子もがんばってその誘惑に耐えた。
 一緒に帰る約束をして、二人後ろ髪を引かれつつ、そこで別れる。
 貴子は彼女のことばかりを考えながら、一階の渡り廊下を通って三号館に入り、二階の図書室に向かった。



 ぽつぽつと利用者がいる、放課後の図書室。
 貴子が中に入ると、常駐の司書先生の他に、すでに当番の三年生女子がやってきていた。その先輩は一人ではなく、なぜか他の女子の先輩三人と一緒で、貴子が儀礼的に挨拶の言葉を投げると、四人の先輩方はにこやかに貴子に挨拶を返して、気安く話しかけてきた。
 ここ二週間、貴子はいつも図書室通いをしていたから、一度は顔を見ている図書委員の先輩ばかりだが、まともに話をしたことはなかった。が、彼女たちとしては、「男子から女子になった図書委員の下級生」とどう接すればいいのか悩む部分もあったようだが、ギャップに戸惑うよりは好奇心の方が勝ったようで、一度きちんと話す機会を窺っていたらしい。貴子が邪険にしないのをいいことに、「男から女になるってどんな気持ちなの?」などと、あまり答えたくないことなどまであれこれと話をふってきた。
 『ろくに知らないのに、なんでこんなになれなれしい人間が多いんだろ』
 貴子は内心うんざりしたが、学校での上下関係を多少は考慮する。感情を顔には出さなかったし口数も少なかったが、律儀に生真面目に先輩方に応じた。
 なのに、本人は以前と同様に振る舞っているだけなのだが、先輩方にはそれが控えめな態度に見えたらしい。
 「穂積さん、女子になったら、すっかり可愛くなっちゃったのね。貴子ちゃんって呼んでいい?」
 「……これまで通り、名字でお願いします」
 人は表面的な印象に騙されやすいということなのかもしれないが、笑ってそんなことを言う先輩方に、貴子はまた鬱屈したものを感じさせられてしまった。理性では、見た目で人を騙すことの利点をあれこれと思いつくが、まだそれを自発的に利用するところまで貴子の感情は落ち着いていない。
 珍しくだいぶ遅れてやってきた広崎紗南は、ただでさえ元気がない様子だったのに、貴子と先輩方を見てちょっと苦しそう顔をした。露骨に「穂積くん」を「女の子扱い」している、先輩たちの態度。
 「あの穂積くんがこんな可愛い女の子になっちゃうなんて、もうびっくりよね。二年の脇坂さんが一目惚れしちゃったのもわかるなぁ」
 そんな貴子や紗南の気持ちをよそに、先輩方はだんだんと気軽に話をふってくる。彼女たちは以前の「貴之」とは距離があったのだが、今の貴子のことは「大人しくて可愛い女子の後輩」とでも位置付けたのだろうか。変な下心や悪意を感じないから貴子もマイペースに応じたが、やはり鬱陶しさと気疲れを覚えてしまった。
 また少し後日の話になるが、土曜日の模様替えや来週の定例委員会の時、他の図書委員の中には貴子にネガティブな反応を見せる生徒も混じっていて、貴子はまた不快な思いをさせられることになる。それを考えると、この先輩たちの反応は充分貴子に好意的だった。が、ここで「好意だとしても一方的すぎる」と思ってしまうのが貴子だった。ある程度仲良くなった後のなれなれしさは親しさの現れとも言えるが、ろくに知らないのになれなれしいのは、貴子の感性では理解できないし、好奇心や興味本位としか思えない。仲良くなるきっかけとして、大胆に相手に踏み込むやり方が有効な場合もあるのだろうが、貴子がそれを許せるのは特別な相手だけだ。この先輩方とは立場上は女同士になっているため、その気安さという面もあるのかもしれないと思うから、まだなんとか鬱になるだけで受け流せていたが、もしもこれが男子の先輩だったら、貴子は下心の存在を勘ぐって、鬱を通り越して嫌悪にかられていたかもしれない。
 生徒たちのその騒ぎを、司書先生も最初は黙認していたが、さすがに賑やかになりすぎてくると穏便に制した。
 「せっかく人手が多いようですからこの機会に」と司書先生は前振りして、当番ではない生徒にも仕事を押し付けて、半強制的に静かにさせる。みなブーイングを飛ばしたが、言われた仕事は真面目にこなすあたり、図書委員になる生徒の性格的傾向が現れているかもしれない。
 貴子は特に表情を変えずに、淡々と仕事をこなす。途中で司書教諭の先生――すでに先週図書室で声をかけられて挨拶は済ませていた現国の先生――もやってきて、それぞれ手伝ったり手伝われたり、先輩方にまたちょっと無駄に構われたりするうちに、時間はゆっくりと流れた。
 五時二十五分が近づくと閉室の準備をし、やがて生徒の帰宅を促す校舎放送とチャイムが鳴り響くと、室内に残っている生徒を追い出して、椅子の整理と戸締りなどをしてまわる。
 先輩方はまだ貴子に構いたがっていたし、広崎紗南も貴子を気にしていたようだが、貴子としては付き合いきれない。打算的には、上級生に味方を作っておくことの利点をいくつも思いつくが、理屈でどう思っても、感情的にはその必要性を感じない。なんといっても、今の貴子の優先順位の一番は決まっているのだった。
 最低限礼儀正しくしつつ、手早く挨拶をして、貴子は荷物を持って、さっさとグラウンドへと向かった。
 その貴子を、追いかけてきた女子生徒がいた。
 「穂積くん、待って!」
 先週の昼休みと、似たような言葉と、似たようなシチュエーション。
 ひと気のない二階の連絡通路の途中で、貴子は足を止めて、追いかけてきた広崎紗南と向かい合った。
 「なに?」
 相変わらず、顔立ちも声も繊細で愛らしいのに、貴子の口調はそっけない。
 紗南は自分を見上げてくる小柄になった「穂積くん」を見て、一瞬口篭もった後、切なげな表情で口を開いた。
 「その、脇坂さんと、付き合い始めたって、ホント、なんだね……」
 「……ああ。月曜からね」
 「……そ、そう……」
 ここで紗南がおめでとうを言えたなら、貴子と友達にはなれたかもしれない。だが、紗南は長い沈黙を作った。
 貴子はそんな紗南の気持ちを考慮する気はない。無言で佇む図書委員の同僚に対して、貴子はいつも通りに動いた。
 「用がないなら帰るよ。またね」
 「わ、わたし……!」
 身を翻した貴子に、急に紗南は声を張り上げた。
 「穂積くんに、脇坂さんは似合わないと思う! 穂積くんをあんなふうにして、あんなの、あんなの穂積くんじゃないよ……!」
 紗南がどんなに思いつめているのだとしても、貴子から見れば突然であり、一方的であり、気に食わない発言だった。
 図書室にくる前に、紗南が部活前のほのかに会いに行ったことを、それほど紗南が思いつめていたことを、貴子は知らない。「ここまでしても気にもしてもらえない」という紗南の苦しい気持ちも、貴子には伝わらない。わかっていても言わずにいられなかった紗南の気持ちを察してやれるほど、貴子は紗南のことを考えていない。図書室で紗南がどんなに緊張した時間を過ごしていたか、紗南が今どんなに必死に貴子に声をかけたのかなんて、貴子は思い遣れない。
 「広崎さんには関係ないよ」
 貴子がそっけなく言い捨てると、紗南の顔は泣きそうに歪んだ。
 「どうして……」
 どうしてよりにもよって脇坂さんなの? とでも、紗南は言いたかったのだろうか。
 自分をふった相手が男性のまま普通に恋人を作ったのなら、紗南もまだ諦めやすかったのかもしれないが、広崎紗南から見た脇坂ほのかは、一度「穂積くん」をふっておきながら、「穂積くん」が女になったとたんに、都合よく節操なく手のひらを返した女。
 紗南がそれを口に出せば、貴子は罪悪感を通り越して、わずらわしいとか鬱陶しいと思ってしまったかもしれない。「本気で好きなら相手の幸せを望め」なんて奇麗事を言うつもりもないが、自分の彼女をけなされて嬉しいはずはないし、ふった側にしてみれば、しつこくされるのも迷惑なだけだ。
 また沈黙が広がる。
 言いたいことはたくさんあるのに、何も言えない紗南の瞳は、今にも泣きそうで、貴子は嫌でも紗南の気持ちを考えさせられる。貴子はさすがに見ていられなくなって、視線を逸らした。
 「悪いけど、広崎さんにとやかく言われるようなことじゃないから。用がそれだけなら帰るよ。じゃあね」
 紗南が好意を匂わせれば匂わせるほど、貴子は優しくできない。『いっそ嫌って、さっさと忘れてくれればいいのに』と思う貴子は、やはり冷たいのだろうか。貴子が言えた義理ではないが、だが、何度も同じ相手を傷つけるような台詞を言わされるのは、貴子もきつい。
 後ろから泣き声が聞こえた気がしたが、貴子は足を止めなかった。



 建前上、樟栄高校の部活動は、夏場でも最長で午後六時までと定められている。時間さえかければいいというものではないが、樟栄高校の運動部が全体的に強豪と言えない理由の一つではあるのかもしれない。
 その六時を過ぎた時刻、部活が終わった生徒たちで、運動部の部室棟付近は少し賑やかになっていた。
 まっすぐに帰る生徒も少なくないが、知り合いや他の部活の友人を待っている生徒、帰宅前にちょっと遊んでいる生徒も多い。部活後のおしゃべりに興じている生徒や、元気に騒いでいる生徒。先週までの貴子が知らなかったような、運動部の部活後の活気。
 そんな生徒たちから少し距離を取って、貴子は片方の肩にバックパックをかけて、手にスクールバッグを持って、恋人を待って一人佇んでいた。
 一日中はっきりしない天気だったこの日、空は今も灰色の雲に覆われている。秋分を過ぎているから、太陽はもう沈んでいるはずだが、地上の光の照り返しがあるのか、どこか白々としている空。薄暗いとも、薄明るいとも言える、微妙な黄昏時。
 その空の下で、一人静かに佇んでいる、二年生の大人しそうな女子生徒。
 そんな貴子をちらちらと見る生徒もいて、貴子は敏感に気付いて少し気に障っていたが、例によって黙殺してすませていた。いつものごとく自意識過剰だという認識もあるし、他人の認識や自分の認識がどうであれ、楽しい時に余計のことを考えていたらもったいない。意識して他人を頭から追い出す。
 もっとも、無理に追い出そうとしなくとも、今の貴子の頭の中は、大好きな女の子のことで充分いっぱいだった。自分に好意を寄せてくれる女子を拒絶したばかりなのに、貴子の思考は自分が好意を寄せる女子のことばかりに向かっていた。
 こうやって恋人を待っていると、貴子はちょっと不思議な気持ちになる。
 貴子がこの場所で恋人を待つのは、火曜日と今日でまだ二回目だが、一週間前には想像もしていなかったような状況だった。
 好きな女の子が部活をしている姿を、帰りにちらちらと眺めるだけだった先週までの貴子。なのに今は、ずっと片想いを続けてきたその女の子と恋人同士で。
 さっきも、校舎を出た貴子がグラウンド傍から彼女の姿を眺めていると、ポニーテールでややぬかるんだグラウンドで走っていた彼女は、貴子に気付いて笑顔で手を振ってくれた。
 部活が終わると彼女は駆けてきてくれて、部室の傍で待ち合わせする約束をして。すぐに彼女は、貴子を待たせないようにと、部室に急いで走っていってくれて。
 そして今、貴子は部室の傍で、恋人が着替えて出てくるのを待っている。
 じっとガールフレンドを待つ時間は、ちょっとじれったいが、なんだかどこかくすぐったい。一人でいると『これで男のままならな……』と懲りずにどうしても思ってしまって鬱っぽくなったりもするが、恋人をこうやって待っているだけで、心は浮き足立って気分は高揚して、気持ちも全然落ち着かない。
 『こういうのって、放課後デートって言っていいのかな……?』
 あれこれと妄想が飛び回って、貴子は微かに頬を緩ませる。どこに寄るわけでもないから、少し違う気もしたが、彼女とただ一緒に帰るだけでも充分心が躍る。『脇坂さん、まだかな……』と、貴子は何度も何度も女子陸上部の部室の方を見やって、一人そわそわする。
 貴子にはやたらと長く感じられた時間だが、実際はごく短い時間だった。
 部室に駆け戻って大急ぎで着替えを済ませた貴子の恋人は、他の部員たちがまだ全然着替え終えないうちに別れの挨拶をして、荷物を持って部室を飛び出してきた。
 「貴子、おまたせ〜!」
 髪型をいつものストレートに戻している脇坂ほのかは、明るい夏のスカートを揺らして、元気な笑顔でまっすぐに貴子のもとに走ってくる。最後の一歩をタンッと跳ねるように着地した彼女は、無造作に貴子の手を握って、しゅっぱーつ! というふうに、貴子の手を引っ張った。
 「今日もがんばったー、お腹空いちゃったぁ」
 彼女の明るい笑顔とその振る舞いに、貴子の胸はどきんと高鳴る。
 貴子を待たせたくなくて早く出てきたせいか、それともそれで普通なのか、ほのかはこの間も今日も、部活の後にシャワーを浴びたりしていない。ほのかの身体からは、いつもより強くほのかの自然な香りが漂っている気がして、貴子の動きは少しギクシャクした。
 「だいぶ暗くなってきちゃったね、来月あたりはもう真っ暗かも」
 「う、うん……。だんだん、秋めいてきたね……」
 彼女の柔らかい手をそっと握り返した貴子は、どぎまぎしながら、か細い声で相槌を打って、彼女に引かれるままに足を動かす。
 貴子の歩調に合わせているのか、出発の勢いの割には、ほのかの歩みはのんびりだった。他愛もない話をしながら、二人、まずは自転車置き場に向かう。
 さっき貴子と別れた後、ほのかとその友人たちの間ではまた貴子の話になったらしい。貴子をやっぱり気に食わないと思った子もいるようだが、貴子と少しは仲良くなってみたいと言ってくれた子もいたようだ。「あんまり無愛想にしてたらダメだよ?」と言うほのかに、貴子は華奢な声で「普通にしてるつもりだけど……」とさっきと同じような言葉を返して、なぜかほのかに笑われてしまった。
 ほのかの話は、陸上部関連の方にも流れる。十月の都大会に向けたメニューがどうこう、菊地さんがどうこう、菊地さんと仲がいい新見くんがどうこう、一年の子がどうこう、女子部の新キャプテンに選ばれた二年の苦労性のだれそれさんがどうとかこうとか。男子部と合同での練習も多いようで、男と思われる名前も多少混じる。
 貴子としては他人の話にはさほど興味が持てないし、ほのかとそこそこ親しいらしい男の存在にはなんとなく不快感も込み上げてくるが、恋人を取り巻く環境は気になるから、熱心に彼女の話についていく。まだまだ緊張は残っているが、素直に楽しんで彼女との時間を過ごす。
 ちなみに、陸上部のイベント、十月九日土曜日の都大会の話は、一昨日の長電話でもでていた。
 貴子は電話で「応援に行くね」と自分からがんばって口を出し、ほのかはそれを喜んで、朝から駅で合流して一緒に行こうという話になって、もう当日の待ち合わせの約束もしていた。もともと都大会の参加者が二人しかいないせいか、陸上部員はみな現地集合らしい。
 が、せっかく貴子は応援する気満々だったのに、ほのかは真面目にやっているものから見ると、かなり非難されそうなことも口に出したりしていた。
 『予選に通ると十日もだし、そこでも勝つと関東大会もあるんだよね。もうわざと負けちゃおうかなぁ。そしたら十日も貴子と遊べるのに』
 『え、せっかく勝ち進んでるのに』
 貴子としては、それはそれで嬉しさもあるが、素直には同意できない。
 そんな貴子の態度に、電話の向こう側でほのかはくすくす笑って、わざと不満げな口調を作った。
 『えー、なぁに、貴子、ぼくとデートするの嫌なの〜?』
 『い、嫌なわけないよ! でも、わざと負けるのなんて、よくないよ』
 可愛い声であたふたする貴子に、ほのかは冗談半分で『貴子がなにかご褒美くれるなら、がんばってみる気にもなるんだけどね?』などと言い出す。真剣に悩んでしまった貴子は『わたし、に、できることなら……』と約束をすることになって、ほのかは『おーしっ、やる気出てきた!』と気合いを入れていた。なにをさせられるかちょっぴり不安もあったが、ほのかの喜び様に、頬を甘くほころばせた貴子である。
 二人、あれこれと話をするうち、自転車置き場に到着する。
 樟栄高校の自転車置き場は、ここ数年の自転車通学の生徒数からすると、少しスペースが広い。おまけにこの時間は自転車も減っているから、空間にだいぶ余裕がある。屋根と電灯のついたそのスペースに、何人かの生徒がちらほらとたむろして明るく騒いでいた。
 「お、脇坂さん、早いね」
 ほのかと貴子が、手に手を取ってほのかの自転車に近付くと、二人組の男子生徒が声をかけてきた。恋人との時間を邪魔されて、貴子は表情を消してつまらなさそうな視線を彼らに投げたが、ほのかは歩みを止めずに彼らを見て、少し首を斜めにした。
 「あれ、星崎くん、こんな時間までなにやってるの? サッカー部って木曜は休みじゃなかった?」
 「うん、暇だったからね、部室でだべってたんだ」
 ほのかの生徒会の知り合いの、二年七組の星崎郁美。先日の生徒会役員選挙では執行委員に立候補して、すんなりと当選したサッカー部の人気者の男子生徒。
 もう一人の男子は、貴子がなんとなく見たことがある顔で、体育などが合同になる二年一組の生徒な気がしたが、勘違いかもしれず貴子に確証はない。
 「暇あるなら木曜も部活すればいいのに。そんなんだからサッカー部弱いんだよ。野球部なんて遅くまでがんばってるみたいなのに」
 星崎郁美は一年の時も執行委員をしていたから、ほのかともそれなりに仲がいいらしい。軽く彼の相手をするほのかが、楽しげにくすくす笑っているように見えて、貴子の心はまた一方的にざわめいた。
 「はは、まあ明日はがんばるよ。脇坂さんは、今日もやっぱり穂積さんと一緒なんだね」
 「うん、貴子とはもうずっと一緒だから。ね、貴子?」
 「あ……、うん」
 話をふられて、貴子はほのかの手を握る手に、微かに力をこめた。どこかつまらなそうだった瞳が、一転してほのかを見上げてまっすぐに輝く。
 貴子のその表情がいったいどう見えたのか、星崎郁美は「ごちそうさま」というふうに軽く笑う。もう一人の男子は、なぜか焦ったように視線を逸らしたが、ちらちらと貴子を見やっていた。
 ほのかはその視線にも敏感に気付いたようだが、特に触れることはしない。貴子の反応に明るく笑って、貴子のもう一方の手からスクールバッグを奪った。
 「貴子、バッグ持つよ」
 「あ、ありがとう……」
 「うん。じゃ、星崎くんたち、ばいばい」
 「あ、うん、バイバイ。またね」
 ほのかは短い挨拶で話を切り上げると、貴子を引っ張って自分の黒い自転車に取り付いた。荷籠に荷物を載せて自転車を動かし、自転車を押して歩き出す。教師に見付かると注意されるから校庭内では二人乗りは控えて、貴子はほのかの横に並んで、ゆっくりと歩く。
 そんなカップルの後方では、星崎郁美が「ほら、早く、せっかく待ち伏せたんだから、話しかけないでいいの?」と、小声で友人をせっついていた。その声が聞こえていたら、貴子はいっそう不快感を刺激されたことだろう。
 その彼は、結局ほのかにも貴子にも声をかけなかった。仲良く並んで歩く女子二人の後ろ姿がかなり遠くなった頃、彼は大きなため息をついて、ポツリと呟いた。
 「……あの二人って、最後の一線は超えられないんだよな……」
 「うわー、いきなりなに言い出すんだよ。キミなに考えてるわけ?」
 「あ、いや、変な意味じゃなくて! やっぱり女同士なんてやっぱ不自然だろ!? 付け込む隙とかありそうじゃないか!」
 「付け込む隙って……」
 「二人とも、なんかまだママゴトみたいっていうか慣れてないみたいっていうかさ! 思春期の女子特有の疑似恋愛ってやつかもしれないし!」
 「本人たちに聞かれたら怒られそうなこと言ってるなぁ。安西がそんなに思春期の女子に詳しいとは知らなかったよ」
 星崎郁美は呆れたように笑って友人を見やる。
 「な、い、一般論だよ! 女子ってなんかお姉さまとか言ってそうだろ!」
 「いやそれも偏見だと思うよ? 女子に聞かれれば確実に笑われるね」
 さっそく自分も笑いながら、郁美は言う。
 ――思春期の女子が、特有の潔癖さで男を忌避したり、きれいな年上のお姉さんに憧れたり、可愛い年下の女の子を妹のように可愛がったり。そういう状況やシチュエーション自体に甘い空想を重ねて、自分たちだけで、女の子同士で気持ちを盛り上げる――。
 フィクションの世界ではいくらでもありそうだが、「現実にはそうそうないんじゃないかな?」と思う郁美である。
 「だいたい、あの二人、あんまり普通の女子にはあてはまらないんじゃない? 穂積さんだけじゃなく、脇坂さんまで元男だったらしいし」
 「だ、だからって、今は女だろ。やっぱり不毛だし不健全だよ」
 「まあ、個人的にはぼくもおおむね同意だけね、でも恋愛は本人たちの自由だよ。他人がとやかく言うようなことじゃない」
 「な! 本人の自由って、明らかに間違ってるだろ!」
 「おいおい、安西って考え方古臭いのな。それ本人たちに直接言ってみれば? たぶん確実に嫌われるね」
 「っ……」
 「はは、言いたいことあるなら、なんでさっき声かけなかったのさ? せっかく人が苦労して呼び止めたのに」
 「そ、それは……。し、しかたないだろ、初対面だったんだから……」
 「ぼくを巻き込んでおいてそれかい。ぼくだって穂積さんとは初対面だったのに。そんなの最初からわかってたことじゃないか」
 「わ、悪い……」
 「まあいいけどさ。そんななら、まだ様子見た方がいいんじゃない? 今はアレだけど、ホントに付け込む隙があるのなら、時間がたてばなんか変わるだろうし。少なくとも、もうぼくを巻き込むのはやめてくれよ?」
 「やっぱり、それしか、ないのかな……」
 今はまだ付き合い始めたばかりだから、少なからずお互いに対して幻想を抱いている部分もあるかもしれない。その分も、時間がたてば、二人の関係が変質する可能性はいくらでもある。
 「いやまあ、二人とも本気の本気なら、時間がたてばたつほど、いい方向にも変わって、どうしようもなくなるかもしれないけどね」
 「…………」
 「はは、キミといい大輝といい、ほんとに厄介な相手に惚れたもんだな、まったく」
 『確かに近くで見ても可愛かったけど、あの子は元男なんだよ? それでもいいの?』などという会話は、二人の間ではすでにすんでいる。だから、星崎郁美もそれ以上言わないが、やれやれと友人に肩を竦めて見せた。
 ちなみに、星崎郁美の友人のこの男子生徒は、名前を安西和彦くんというのだが、結局彼は貴子に何も言い出せないまま、残り十数ヶ月の高校生活を過ごすことになる。
 貴子とほのかがお互いに夢中になっている影で、あちこちで悲喜こもごものドラマが繰り広げられているらしかった。



 「今のって、生徒会の……?」
 「ん? ああ、うん、執行委員の星崎くんだよ。貴子も名前は知ってたかな?」
 「……仲、いいんだ?」
 自転車置き場を離れてすぐ。
 自転車を押す恋人と並んで歩きながら、貴子は何気なく尋ねた……つもりだが、ほのかの耳にはどこか拗ねたような愛らしい声に響いたらしい。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて、ニコニコと貴子を見やった。
 「もしかして、貴子妬いてる?」
 「……脇坂さんが、楽しそうだったから」
 貴子は一瞬「嫉妬深い男」という形容を想像して口篭もったが、結局素直に思ったことを口に出した。
 自分でも狭量だと思うが、ほのかに近付く男の存在は不快感を刺激されるし、ほのかがそんな男たちに簡単に笑みを見せるのもなんとなく嫌だ。
 「もう、馬鹿だなぁ」
 相変わらず直球なそんな貴子に、ほのかはちょっと笑うような態度になった。片手を貴子の方に伸ばして、貴子の髪をさわってつまむように撫でる。
 「ただの生徒会の知り合いだよ。ちょっと話したくらいで貴子が妬くことなんてないのに」
 彼女の手がくすぐったくて微かに身を竦めつつ、貴子は曖昧な反応を返した。
 「……脇坂さんて、男友達、多いよね……」
 ほのかの男友達。「貴之」が得ることのできなかったポジション。
 今の貴子はそれ以上になっていると言えるが、それでも、なぜか胸が少し痛くて、どこか不快な気持ちになる。
 「えー、友達っていうか、普通に話す男子は多い方かもしれないけど、でも貴子が妬くようなことなんてほんとになんにもないよ?」
 くすくすとからかうような笑顔になって、ほのかは手を貴子の頬に動かした。
 「ヤキモチ焼いてくれるのはちょっと嬉しいけど、なんかもしかして貴子、ぼくを信用してないってことかな〜?」
 「え、あ、そんなわけ、ない、けど……!」
 貴子は少し慌てたが、自分に自信がなくて、言葉を濁す。頬を撫でられて貴子の背中が震え、頬も微かに熱を帯びた。
 「お――わたし、しか、見て欲しくないから」
 ぽろりと零れたその言葉は、貴子の素直な本音。
 ちょっと茶化すように本音を織り交ぜたほのかと違い、貴子は言葉も態度もまたストレートだった。
 言われたほのかは、照れたような顔になって、足を止めた。
 気付くのが一歩遅れた貴子の頬から、ほのかの手が離れる。貴子が自分の台詞にいまさら羞恥を感じながら慌てて振り向くと、目のふちをほんのりと赤く染めたほのかが、きれいな笑顔で貴子を見つめていた。
 「だいじょうぶ。ぼくが見ていたいのは、貴子だけだよ」
 貴子をほんの少しだけ見下ろして、にっこりと笑みを浮かべて、ほのかはまっすぐに言う。
 その彼女の表情がきれいで可愛くて、貴子は胸を震わせて、数秒彼女に見惚れた。
 ほのかもほのかで、自分を見上げてくるその貴子の表情に見惚れていたが、貴子よりは余裕があった。ほのかはすぐに場所を意識して、恋人の背中に軽く手をあてて、恋人を押してまた歩き出した。
 彼女にウエスト部分を押されて、貴子はピクンと身体を揺らしたが、逃げない。赤い顔でちらちらと彼女に見惚れながら、彼女にくっついて並んで歩く。
 ほのかもまだ頬は少し赤かったが、彼女はそのまますぐに明るい笑顔で言葉を紡いだ。
 「むしろぼくの方が貴子のこと心配なんだけどなぁ。貴子って可愛いから、気にしてる男子多いみたいだし」
 「そんな男なんてどうでもいいよ。脇坂さん以外、興味ない」
 華奢な可愛い声で反射的に言い返す貴子に、ほのかはまた嬉しそうに笑う。『さっきだって星崎くんと一緒にいた男子、貴子を気にしてたみたいだよ?』という言葉を飲み込んで、ほのかは話の角度を少し変えた。
 「貴子って、もしかして男嫌い? なんか男子を避けてるよね。しっかりガードも堅いっぽいし」
 「…………」
 今の貴子は、女性全般を嫌ってはいないのと同じ意味で、男性全般も嫌っているつもりはない。恋人と一緒にいる時は他人なんて邪魔でしかない、というのは素直な気持ちだし、性的指向という意味でも論外だが、それは話が別だ。
 「……嫌いっていうか……」
 むしろ、貴子が意識しているのは、やはり今の自分自身の性別なのだろう。
 男の存在も女の存在も、貴子に今の自分の性を意識させる。それだけならまだしも、過去の自分の経験から、「女は男の性的対象」であり「男は女を性的対象として見る」という認識が、嫌でもまとわりついている。
 男として生きてきた時間がある分、貴子の偏見は根強いのだろうか。生まれつきの女性であれば、身体の成長に合わせて自然と経験を積んで、そんな男の視線も普通に受け止めるのかもしれないが、貴子はその経験を積んでいない。貴子が持っているのは、男として生まれ育ってきた十六年分の経験で、貴子は「男の欲望」を、自分の経験として知っている。だからいっそう嫌な気分になる。
 自分が男に性的対象として見られる不快感。男の性的対象になってしまっている今の自分に対する負の感情。
 男の存在が気持ち悪いとは言わないが、男に性的な目で見られるのはどうしても気色悪い。自分がそういう立場になっていることも、ある意味自分で自分が気持ち悪い。
 自分でも自意識過剰だとわかっている。かつての「貴之」自身、無差別に誰彼かまわず「女性」をそういう目で見ていたわけではないし、四六時中意識していたわけでもない。だから、貴子のことを気にしていない男も多いはずだ。今の自分の身体や立場が女になっている問題も、しょせんは貴子が自分自身で真っ向から受け入れるべきただの現実でしかない。
 しかし、頭ではそう理解していても、感情がついてきていない。
 それに加えて、ほのかに対する独占欲から、彼女に近い男には警戒を覚えるし、彼女が他の男に笑顔を見せることにも嫉妬心が働く。もっと自分に自信があれば平然と気にしないでいられるのかもしれないが、貴子はまだほのかの恋人として確固たる自信を持てていなかった。
 「嫌いっていうか?」
 貴子が言葉を選んでいると、少し長い沈黙が生まれる。ほのかは続きが気になったのか、貴子を軽くせっついた。
 『嫌なのは、今の自分の身体が男ではないこと。今の自分の身体が女であること』
 貴子はその言葉を、辛うじてのみこんだ。
 先日の夕方、「貴子が女でないと嫌だよ」と言い切った、貴子の彼女。彼女には貴子の本音がお見通しで、それを受け入れてくれているのだとしても、愚痴のような発言を何度も繰り返したくなかった。
 「……ろくに知らないのに、なれなれしいのって、嫌だから」
 微妙に角度をずらしてそう答えた貴子に、ほのかは一瞬きょとんとした後、なぜか吹き出すように笑い出した。
 「ああ、あは、そっか、貴子ってよく考えたら女子にも冷たいもんね。この間はぼくにだってきつかったし?」
 「……え? あ、ぇ、それは……!」
 火曜日の更衣室のことを持ち出されて慌てる貴子に、ほのかは軽く笑った後、でも、と言葉を続けた。
 「でもそんなこと言ってたらだれとも仲良くなれないんじゃない? 少しは話くらいしてみないと、そもそも知り合いにだってなれないでしょ?」
 「す、少し話すくらいからなら、別にいいけど……、でも、無関係なのにいきなり話しかけられても、鬱陶しいだけだよ」
 先週などに見知らぬ男子に言い寄られたことを思い出して、貴子は不快げに言い捨てる。その表情が子供じみて可愛らしく見えたのか、ほのかはくすくす笑った。
 「気持はわからなくもないけどね、貴子可愛いから、ほっとくと男寄ってきそうだし」
 「…………」
 「下心のある男とは仲良くしなくていいけど、でも普通の男子とか、女子もだけど、最初から拒絶しちゃうより、ある程度の友達を増やした方がいいんじゃない? 今の貴子も悪くはないけど、もうちょっと人付き合いした方が後々便利だと思うよ? 先に相手に興味や好意を持ってもらえるのって、時々わずらわしいけどすごく有利なんだから、もう少し利用しちゃえばいいのに」
 『当たり前のことだけど、だれかを気に入っても相手が同じこと思ってくれるとは限らないし、気に入った人に話しかけてみて、迷惑とか言われたら貴子も嫌でしょ?』というような、自省を促すような発言を、ほのかはしない。
 「まあ、貴子みたいな可愛い子は、みんなほっといてもちやほやして近付いてくるだろうから、貴子があんまり他の子と仲良くなると、ぼくも妬いちゃうけどさ?」
 ほのかは最後はそう言って少し茶化したが、どちらかと言うとしたたかで打算的な発言だった。貴子自身似たようなことを思っているが、相手がほのかでなければ、「女は恐ろしいな」などと思ったかもしれない。
 「頭では、わたし、も、わかってるけど……」
 貴子は複雑な気持ちでそんな恋人を見やり、曖昧な態度で彼女に応じた。
 「別にこれ以上、無理に友達も欲しくないし」
 貴子としては今の知り合いの数で充分で、これ以上知り合いを増やす必要性を感じない。
 貴子が素直にそれを言葉にすると、ほのかはまた楽しげな笑みをひらめかせた。
 「貴子って、なんかすごく大事にされて育ってきたんだね」
 また急に話の角度が変わって、今度は貴子が一瞬きょとんとした。
 「……そう、なのかな……?」
 貴子は自然に母親のことを思い浮かべていたが、貴子にとって母親の愛情は当たり前のものだ。無意識にそう思っているあたりが大事にされてきた証拠のようなものだが、本人にしてみれば、どこがどう「すごく大事」にされてきたのか、よくわからない。
 貴子は曖昧に首を斜めにし、ほのかはいっそう楽しげに笑った。
 「うん、だって、友達いらないなんて言えるの、充分満たされてるからでしょ? うん、よく考えたら貴子って、お行儀いいし姿勢きれいだし変に素直だし、育ちがよさそうっぽいもんね。愛情いっぱいで大切にされてきたー! って感じがする」
 「…………」
 「貴子がさりげなくわがままなのもそのせいなのかな? なんか貴子って、ゴーイングマイウェイっぽいし、頑固っぽいし、他人なんてどうでもいいって感じだし」
 好き勝手なことを言う彼女の言葉が、あたっているのか外れているのか、貴子本人にはもう判断ができなかった。
 よく言うと「自分に正直」「意志が強い」「他人に流されない」などと言い換えることもできるかもしれないが、貴子はそこまで自信過剰ではない。褒められているとも思えなくて、瞳を暗く揺らした。
 「あ、いいんだよ、気にしないで。そんなところも、ぼくの前でだけ照れ照れしてる貴子も可愛いもんね」
 笑っていたほのかは、敏感に気付いてすぐにフォローに走ったが、そんな台詞ではフォローになっていないのだった。「照れ照れしてる」という表現でまたグサっと傷ついて、貴子の心はズンと沈んだ。
 「……脇坂さんは、やっぱり……、わたし、が、かわいい、方がいいんだ?」
 「え、それは可愛い方がいいに決まってるよ。どっちがいいか聞かれて、彼女が可愛くない方がいいなんて言う人、まずいないでしょ。あ、でも、貴子は別に無理しなくても大丈夫だよ。今のままでも充分可愛いから」
 「…………」
 貴子の一連の態度や振る舞い自体が、ほのかの目にはいっそう可愛く見えるらしいが、それはそれで、貴子としてはやはり傷つく。今の自分の性別や容姿がほのかに与える影響は、無視はできない要素だとわかっているし、迷わずに利用すべきだと思うが、やはりまだそこまで割り切れない。
 「もっと笑ってくれればいいのになぁ、っては思うけどね。後、もっと自分から色々話して欲しいな。無口な貴子も可愛いけど、なに考えてるのかまだよくわかんないから」
 明るく笑って、ほのかは言いたいことをまっすぐに貴子にぶつける。
 楽しげなそんなほのかに、貴子はなんだかちょっと泣きたいような、暴れたいような気分になった。ほのかには悪意も悪気もないことはわかっているが、男のままであれば大きく違ったであろう目の前の現実がつらい。
 が、貴子はなんとか衝動を抑えた。少し重苦しい気持ちになってしまうが、ほのかは本音を言ってくれているのだろうから、それは素直に受け止めたかった。後は、それをどう昇華するかは、もう貴子自身の問題だった。もちろん、周囲の理解や協力はあるに越したことはないし、貴子の方でも自分を気にしてくれる人の気持ちを思いやって、時には甘えたり頼ったりすることも大事なのだろうが、やれることからやっていくしかない。
 この先どう転ぶのか、貴子にもまだわからない。
 恋人との時間を過ごしつつ自分の望むペースを作るのが先か、彼女が強引に貴子の中に踏み込むのが先か、貴子が耐え切れずに恋人の前でもネガティブな感情をあらわにするのが先か。それとも、恋人との時間を地道に積み重ねていくことで、ありのままの自分を、彼女の前でも自然にさらけだせるようになっていくのか。
 今の貴子は自分の悩みを恋人にぶつけずに抱え込んでいるが、無理に急がなくとも、二人の時間はまだまだこれからたっぷりとあるはずだった。
 「なに話せばいいのか、よくわからないから……」
 「えー? 別になんでもいいのに」
 貴子が感情を抑えて、がんばって小さく言葉を返すと、ほのかは軽く笑って貴子を見やった。
 「夜ご飯の話でもいいし、テレビとか本とかでもいいし、そうだね、図書委員のこととかでもね。放課後の図書委員ってどんななの?」
 貴子の鬱屈した心理を、ほのかはどこまで察しているのか。
 ごくなんでもないような話題を持ち出した彼女に、貴子の気持ちは少しだけ緩む。恋人に問われるままに、貴子は正直に図書委員のことを話した。
 木曜日はいつも人は多くないこと、さっき司書先生に言われてやった仕事のこと、午前中に話していた本をそろそろ読み終えること、普段の図書委員の仕事や、委員会のこと。
 ほのかは笑顔で頻繁に口を挟んできて、去年や今年の同じクラスの図書委員の話や、彼女が生徒会で顔を合わせている図書委員長などの話も混じる。友達の友達というような繋がりもあったりするようで、同じ図書委員の貴子がよく知らないような生徒の名前も出て、貴子が返事に困ってまごついたりすると、ほのかは楽しげに笑う。
 他愛もない話題に、重苦しくなりかけていた空気が、ゆっくりと自然にほぐれていく。
 結局、貴子が自発的に話をするのではなく、ほのかが話をふって貴子がそれを受けるという形で、二人のやりとりは進む。貴子は恋人の反応が気になってどうしても少しぎこちないが、当り障りのない会話の方が今は自然に楽しめるし、心理的に楽だった。貴子は少しずつ気持ちを立て直していった。
 途中で自然と、来月の読書週間や図書室の模様替えの話にもなる。貴子が土曜日の放課後に借り出されたことを話すと、ほのかは「えーっ」と非難の声を上げた。
 「土曜もあけといてって言ったのにーっ」
 「ご、ごめん……」
 仕事が入ったのは貴子のせいではないのだが、貴子はちょっとあたふたして、しゅんとなって謝る。
 話をするうちに校門を出て、二人すでに自転車に乗っている。朝同様バックパックを背負った貴子は、ほのかがこぐ自転車の後ろに乗って、彼女のウエストに腕を回して、しっかりとそっと抱きついていた。
 「でも、たぶんすぐ終わるから、部活終わるのには間に合うよ」
 「そうかもしれないけどーっ」
 ほのかは子供っぽくブーブー言う。
 「貴子のお菓子楽しみにしてたのにっ」
 調理部は、水曜日は「食事系」を作って、土曜日は「おやつ系」を作るという話は、貴子も聞いているが、ほのかは土曜日も貴子を調理部に引っ張り出す気満々だったらしい。そんなほのかは貴子の目にはとても可愛く映るが、やはり少し困ってしまってあたふたしてしまった。
 「じゃ、じゃあ、お菓子なら、今度、なにか作ってこようか? できるだけ、甘くないやつ」
 「え、ほんと?」
 現金なことに、ほのかは即座に機嫌を戻した。
 貴子は少しほっとして、どういうお菓子が好みなのか、それとなくほのかのリクエストを聞く。
 好き嫌いが多いと言うほのかは、基本的に果物類はなんでも好きな方らしく、フルーツゼリーや杏仁フルーツや苺大福なども好きらしい。祖父母と一緒に住んでいる影響か、甘味を抑えたお汁粉や羊羹などの和菓子も好きなようで、「やっぱり日本人は羊羹に緑茶だよねっ」と、ほのかはなぜか胸を張り、貴子は少し笑わされてしまった。
 多少年寄り臭いとも言える意見なのに、貴子の贔屓目なのか、ほのかが言うととても可愛く見える。楽しげな彼女に貴子の頬も甘く緩んで、自然とちょっと明るく受け答えする。
 そんな貴子だから、全然気付いていなかった。
 ほのかの態度が半分は意図的なもので、貴子が笑うたびに、ほのかも心を弾ませていたことに。
 恋人に自分をもっと好きになってもらおうとしている一面は、ほのかにもある。貴子のことはなんでも知りたいというのもほのかの本音だが、貴子に暗い顔なんてさせたくなくて、貴子の気持ちを少しでも和らげて笑わせて歓ばせたいのも、ほのかの本音。
 だからほのかは、図書委員の広崎紗南が部活前に会いにきた件も、話題にしたりしない。貴子を露骨に「男子扱い」し続けていた広崎紗南とほのかとのやりとりを貴子が知るのは、もうずっと後のことだ。
 その頃になれば高校時代の一コマとして懐かしく話せるようになるのだが、この時貴子に教えなかったほのかの内面も、色々とシンプルではなかった。紗南に対する貴子のスタンスは昼休みの時点で露骨だったから、それを踏まえて、いちいち紗南のことを貴子に考えさせるような発言をしないほのかは、ある意味したたかだった。
 貴子だけではなくほのかも、二人一緒にいる時は素直に楽しみつつも、一人の時は色々なことを考える。本気の恋は真剣勝負、傍からはひたすらイチャイチャしているように見えても、水面下ではささやかな恋の駆け引きを繰り広げることもある。
 付き合い始めてまだやっと三日、二人の恋はまだまだこれからだった。



 自転車を使えば、学校から駅は十分もかからない。
 駅が近付いてきて、貴子はとても名残を惜しんだが、ほのかは駅にまっすぐは向かわなかった。貴子はえっと思ったが、ほのかはこの日、母方の実家に泊まりに行く予定だった。駅傍の駐輪場に向かったほのかは、「途中まで電車も一緒だよ」と、ご機嫌そうに笑う。
 貴子は漠然と、ほのかは一度家に帰ると思っていたのだが、家に帰らずに直接向かうらしい。今日のほのかがバックパックまで持っていたのは、体育があるからではなくお泊まりセットを持ってきているせいだと、貴子は今ごろ気付いた。
 貴子としては、彼女と一緒の時間が長くなったのは嬉しいが、この時間の電車はそれなりに混む。だからどうというわけではないが、なんとなく落ち着かなくなった。
 駐輪場に自転車を置くと、ほのかは貴子の手を取って歩く。
 また他愛もない話をしつつ、二人駅に向かう。
 と、駅前のドーナツ店から微かに甘い香りが漂ってきて、それを感じたとたんに、貴子の身体が反応した。
 駅前の喧騒に混じって、クゥ、と、貴子のお腹が、小さな音を立てる。
 貴子の頬は情けなさに桃色に染まったが、ほのかは気付かなかったのか、幸い話題にはのぼらない。貴子はカッコ悪くて情けない自分を責めつつ、羞恥をごまかすように、少し大げさにほのかの話に相槌を打ったりした。
 駅にたどり着くと、二人一度手を離して、改札を抜ける。
 貴子はホームに案内しようとしたが、ほのかは自分の地元の駅に充分慣れているようで、逆に先導するように貴子の手を取ってきた。ちょうど電車が出発したばかりのようで、電車を降りた人波とすれ違って、階段を上りホームにでる。
 『……彼女に先導されっぱなしなのは、なんかカッコ悪いな……』
 貴子はいまさらながらに頭の片隅でそう思ったが、彼女の手を振り払うという選択肢が頭にない時点で、どんな言葉も言い訳にならないのだった。
 二人、電車の到着時間を確認しつつ、貴子のいつもの乗降車位置に並ぶ。「貴子っていつも女性専用車両なの?」などとほのかが貴子にじゃれつくうちに電車がやってきて、貴子はほのかにくっついていく形で、電車に乗り込む。
 車両の半ばでつり革をつかみ、二人並んで立ったが、ほのかはわざとなのか多少混んでいるからなのか、肩に肩が触れ合うような位置をずっと維持した。貴子は鼓動を高鳴らせたが、ここでも自分から離れるという発想は浮かばない。ドキドキしつつ、自分の腕に感じる彼女の肌の感触をこっそりと満喫した。
 混雑する夕方の電車の中で、仲良く手を繋いで密着して、小さな声でじゃれあっている、高校二年生の女子同士の二人。
 貴子の口数が少ないせいもあるのか、ほのかがふってくる話題は、テレビやマンガの話など、他愛もないものも少しずつ増えてきている。貴子は芸能人やバラエティ番組などあまり興味がないのだが、ほのかの口から聞く分には話は別だった。不思議なことに、ほのかの手にかかると面白く聞こえる。
 ほのかが興味がない人間にもわかるように話しているのも大きいが、貴子にとっては、好きな人の言うことだから贔屓の引き倒しの部分もあるのだろう。おまけに、会話のあちこちで、ほのかはスキンシップも織り交ぜてくる。
 貴子の手に自分の手を触れさせたり、内緒話をするように顔を寄せたり、耳に唇を近付けたり。人の迷惑にならないようにずっと抑えた声量で、至近距離にいるほのかの甘い吐息が、時々貴子の耳や頬を撫でる。
 ほのかは髪や頬や耳にも簡単に手を伸ばしてくるから、貴子はくすぐったくて身を竦めつつも、身近にある彼女の身体や香りや体温や感触にドギマギしてしまう。たまには会話が途切れることもあるが、ほのかは貴子を楽しそうにじっと眺めて、貴子をあたふたさせてくれる。
 それでも、貴子としてはくすぐったいし落ち着かないが、やはり嫌な時間ではなかった。
 滅多にないかもしれない、彼女と一緒に電車で帰宅する時間。
 いつもと同じ電車のはずなのに、彼女がいるだけですべてが違って感じられる。
 貴子の率直な本音をぶちまけると、貴子も反撃していろいろ彼女をさわりたい気持ちもあるのだが、好きな女の子に自分からそう簡単に触れると、その先をとんどん求めたくなって歯止めがきかなくなる自信があった。先走ってまた拒絶されたくないし、ゆっくりとではあっても彼女との距離は確実に縮んでいると思うから、まずは一歩ずつだった。今はまだ、彼女の方からの積極的な振る舞いだけで充分に嬉しい。
 楽しい分だけ、終わってしまえば余計に切なくなる可能性はあるが、この時の貴子はそんな未来を考える余裕はなかった。『いつもこうやって一緒に帰れたらいいな』と欲張った未来を考える余裕もなく、電車を降りる間際の彼女に頬にキスをされてしまう数分後の未来もまったく予想できずに、『こういう状況で、後のことを考えすぎて今を楽しまないのはもったいない』などというような理屈も抜きで、貴子は今の一瞬一瞬を生きていた。
 ほのかの振る舞いや発言は、時々貴子のネガティブな感情を刺激するし、今の自分の身体の現実はやはり重くて、一人になれば激しく鬱っぽくもなる。
 だが、それを補って余りある感情がある。相変わらずクールに恋愛ができない自分に、貴子は情けなさも感じるが、彼女といる時は、それをどうこうする余裕も持てない。そんな余裕が持てていたら、もっとクールに振る舞っている……はずだ。
 しょっちゅ困らされてしまうがそれもどこか楽しいし、彼女にさわられるのも、彼女と身体が触れ合うのも、彼女の香りやぬくもりや柔らかさが身近に感じられるのも、やはり嬉しい。顔を上げると、間近にいる恋人をいくらでも見ることができる。彼女と目が合うと、貴子はそれだけでドギマギしてしまうが、彼女が笑いかけてくれると、貴子の頬も自然と緩む。
 悩んだり笑ったり、落ち込んだり浮かれたり、時には照れたり、はしゃいだり。
 少しずつ少しずつ、二人の恋も深まっていく季節。
 自然と高揚してしまう貴子は、素直な気持ちのままに、彼女に夢中だった。








 concluded. 

index

初稿 2008/05/07
更新 2008/05/07