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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第一話 「それでいいと思えるかどうか」
   一 「男から女へ」


 特発性性転換症候群。俗に性転換病やTS病、TS症候群などと言われる病気。
 男性は女性へ、女性は男性へと肉体が変化するこの病気が社会的に認知されてから、すでに三十数年が経過している。
 性転換病という俗称も悪いのか、どうしても古い世代を中心に偏見は根強く、まだまだ多数の問題を抱えている病気だが、法整備は整って、少しずつ偏見は減ってきている。特に若い世代は、いつ自分も経験するかわからないだけあって、性転換病経験者に対して比較的寛容だった。本人の意図と無関係に発病するのだから、無条件に差別したり偏見を抱いたりするのは良識がある態度とは言えない。
 それは地道な啓蒙活動と教育の成果でもあるが、そんな子供たちの教育を巡っては、各所で様々な議論が交わされていた。「偏見を無くし、いざという時の覚悟を促す」という点では一致しているが、こうすべきだという絶対の指標はまだ存在しない。これは人間相手なだけに成果の確認に長い時間がかかるという問題もあったし、親世代にまだ経験者が少ないという問題もあった。
 「いつ性別が変化するかわからないからといって、男と女どちらでもいいというふうに育てた方がいいのか? または、男と女どちらでもないというふうに育てた方がいいのか?」
 そうすべきだという声もあれば、これまでどおり幼少期は肉体の性そのままで育てて、正しい知識と発病後のケアによって問題を解決すべきだという声もある。文化として根付いている性役割を重要視する声もあれば、男女間の社会的格差を少しでも減らすためにこの現象を利用しようと考える声もあり、その他にも既存の二つの性とは独立した第三第四の性と主張する声などもあって、国内に限っても倫理問題や利害関係も複雑に絡み合って、まだまだ一朝一夕には解決しそうにない案件だった。
 なんにせよ、今の子供たちは、そんな現実の中で生きていかなくてはいけなかった。
 発病には性的な発育度合いが関係するのか、発病者の八割が十代から二十代前半で、今の中高生は、高校卒業時点で約1.5%、四十歳までに約3%の人間が発病するだろうと言われている。一回り上の世代が四十歳までに約1%と言われていることを考えると、発病率は年々上昇していることになる。
 そんな現実があるから、身近に触れる機会も少なくはなく、友達や家族や親戚、近所の人が発病するというのも珍しいことではなくなりつつあった。学校でも、社会科や保健体育の授業などで、政府の統計が正式に公表され始めた二十数年前を境に法整備も整ってきていることなどを、詳しく学ぶ機会もある。発病前の写真と発病後の姿を見比べるような「TS美男美女コンテスト」などといったテレビ番組も一部流行していたし、子供たちも性転換についてたびたび考えさせられることになる。
 だから穂積貴之も、自分の性別が変わってしまう可能性を考えたことはあった。今の時代、だれしも一度は「もし男になったら」「もし女になったら」と、冗談めかして言い合ったりするものだし、「だれそれくんは実は元女なのではないか」というような、根拠のない噂が学校などで流れたりすることも珍しくはない。貴之は直接親しい人間の発病にぶつかったことはないが、母親の知り合いにそういう男性がいるし、中学の時にクラスメートが発病して一騒動あったのを眺めて、もしも自分が女になったらと本気で考えたこともあった。
 が、これまでは、自分が発病したらその時はその時、女になってからのことは女になってから考えればいいと思っていた。男のままがいいと思っていたし、女になりたいと思ったこともなかったが、元々自分の意志ではどうしようもないのだ。3%の発病率は、換言すると97%は発病しないと言えるから、確率的には発病しない可能性の方が高い。まだ将来の仕事のことをそれほど具体的に考えてもいなかったし、恋人が男になってしまうという可能性も、恋人ができてから考えても遅くないと思っていた。自分のことを「ぼく」と言ってどこか少年っぽさもある貴之の片想いの相手は、入学当初に「脇坂さんって実はTSっ娘だったりして」と噂が流れたこともあるが、貴之が恋に落ちたのは今の彼女で、仮にその噂が本当でも彼女の過去をどうこういうのはナンセンスで、重要視して考えたことはなかった。もしも貴之が、火のない所に煙は立たないとばかり単純にその噂を信じ込んでいれば、貴之の思考はまた別の流れを取ったのだろうが、貴之はそれほど単純でもなかった。
 そんな貴之だったから、十六歳、高校二年の八月上旬、食欲が異様に膨れ上がって病院に行き、診断結果を知らされた時も、表面上は落ち着いていた。男であっても女になっても、自分が自分であることにはかわりがない。考えるべきこと、嫌でも考えてしまうことは山ほどあったが、取り乱すことはなかった。
 とは言え、それはあくまでも表面上の話で、どうしても無視できない問題があり、内心大きく落ち込まざるをえない要因は、やはりあった。どうしようもない現実を前に、貴之の思考は、すぐに事後の問題へと飛んでいた。男の身体や立場への執着や拘り、女の身体や立場への忌避感といったものもあったが、それ以上に気になったのは、一人の少女のことだった。
 貴之の片想いの相手、脇坂ほのか。
 その相手と同じ、女になってしまう。
 好きな相手と同性になってしまうということを現実的に考えると、どうしても突きつけられる問題がある。
 「男の身体で彼女と愛し合うならともかく、女の身体になっても愛し合いたいのか? 客観的には女の同性愛、という立場を受け入れるのか?」
 とっくにふられているのだから無駄な思考かもしれないが、そう自問すれば、悩まざるをえない。身体が女になっても、貴之は自分の気持ちがそう簡単に変わると思わない。が、気持ちが変わらなくとも、女の身体での恋愛なんて未知数すぎて躊躇する部分も多い。
 なにより、それ以前の問題として、貴之の方で女の同性愛に走るとしても、相手の方が受け入れてくれるとは限らない。同性という壁だけでなく、元男ということを相手がどう思うかという問題もある。
 昨今は同性間の結婚も認められているが、偏見は根強いし、自分が同性愛に走ることに対してはネガティブな感情を持つものも多い。貴之も、他人がやる分には何も言わないが、自分が男に惚れられるのは考えただけで気持ち悪いし、同性愛は不自然だという偏見を漠然と持っていた。
 貴之の片想いの相手が同性愛に対してどういう認識を持っているかはわからないが、自分自身が同性愛に関わることには嫌悪を抱く可能性は高かった。性転換女性という存在に対しても、偏見とまではいかなくとも、隔意がある可能性も高い。貴之に言わせれば何を勘違いしているのかと呆れたくなることに、「付き合うなら絶対TS女!」「付き合うなら絶対TS男!」という人間も世の中には存在しているらしいが、友達付き合いならまだともかく、性転換男性や性転換女性との恋愛となると躊躇する人は多い。
 「なんで、女なんかに……」
 元からゼロに近かった可能性が完全なゼロになると思えば、ふられた時と同じくらい泣きたい気分になった。ただでさえ、男ではなくなって女になってしまうという現実は重いのに、いっそう鬱な気持ちになることを抑えることができない。
 しかしそれでも、どんなに嫌だと思っても、発病してしまうと、逃れる手段は死しか残っていない。そして貴之にとって死は何かを手に入れるための手段にはなりえず、ただの終わりでしかない。
 夏休みが終わり、二学期が始まった九月の上旬に、貴之の身体は完全に女になった。
 発病前後で名前を変えるのは一般的で、貴之の名前も同時に変わった。
 最近は性転換病の可能性をふまえて、子供に男女兼用の名前をつける例も増えているが、「貴之」という名前は男の子向きの名前だ。性転換病が発覚してすぐ、医者に改名の考慮を促された貴之は、母親に命名権を放り投げた。名前なんかに拘りたくなかったという理由もあるし、斬新な名前にしろありがちな名前にしろ、カッコいい名前にしろ可愛い名前にしろ、「自分で自分に名前をつける」という行為に妙な抵抗感と羞恥心が伴ったためでもある。
 「タカちゃんの女の子の名前かぁ。タカちゃんはタカちゃんだから、タカちゃんっていうのは残った方がいいよね?」
 微妙に意味の通りにくいことを言った母親の穂積雪子は、少し悩んだようだが、すぐに貴之を身ごもった時に娘だったらつけようと思っていたという名前を四つ列挙した。
 貴子。読みはタカコ。
 貴美。読みはタカミ。
 貴子。読みはキコ。
 貴子。読みはトウコ。
 十数年前、両親は子供の名前を考える時に、「貴」という字に妙に拘ったらしい。生まれてくる子供に彼らが何を望んだのかが、そこには表れているのかもしれない。
 「気に入らないなら、自分で考えてもいいし、他の名前を考えるわ」と母親は言ってくれたが、貴之は少し複雑な心境になりつつも、その中からよりましと思えるものを選択した。「キコ」という名前は可愛いし「トウコ」という名前もきれいな響きだが、「タカユキ」という今までの名前からは印象が遠すぎる上にそんな名前を貰っても嫌すぎるから却下。「タカミ」という名前も、自分の名前に「美」などという字を自分で選択するのはナンセンスすぎるから却下。それを言い出すと「貴」という字もなかなか偉そうなのだが、その字とは零歳からの付き合いだ。結果消去法的に、貴之は「タカコ」という名前を選んだ。
 もう少し女を意識させない名前が望ましかったが、元の名前と違いすぎるのも抵抗があったし、かと言って、元のままの名前でいるのも相当のギャップが生じる。後悔することもあるかもしれないが、責任は母親に押し付けてしまえばいいし、凡庸に思える名前の方がいいと、この時の貴之は表面上は冷静に判断した。
 「今時タカコもないよなぁ……」と、全国のタカコさんたちに非常に失礼なことも考えたが、貴之もそのタカコさんたちの仲間入りだった。
 穂積貴子。
 それが、貴之の新しい名前。



 ――目を開かなくとも、さわらなくとも、ただ存在しているだけでわかる違い。
 目をつぶっていても意識させられる身体。
 男だった時とは違いすぎる感覚。
 今まで自覚なしに感じていた自分の男の肉体と、嫌でも自覚させられてしまう新しい自分の女の肉体との、その大きな差――。
 性転換に伴う高熱と激しい苦痛から解放されて、完全に女の身体になった「貴子」が、意識を取り戻して最初に感じさせられたのは、全身のけだるさと、強烈な違和感だった。
 失ったと感じる部分、変化したと感じる部分、新しく得たと感じる部分。
 この手の違和感は一過性のものだと言われるが、その分余計に鋭い。特に「自分の身体が明らかに別のものに変わってしまった」という感覚は、衝撃的なまでに鮮明だった。一部の人間が、性転換病は半身不随よりたちが悪いと主張したくなるのは、この感覚に理由があるのかもしれない。
 貴子はそこまでは思わなかったが、最初はさすがにパニックに陥って、傍にいた母親を慌てさせてしまった。すぐに状況を思い出してなんとか我に返ったが、性転換に伴う地獄の苦しみからの解放感を味わう余裕もなかった。違和感には感情をかき乱されたし、思うように動かせない身体にも苦労した。
 真新しい身体に神経が過敏になりすぎているのか、様々な感覚を処理できずに視界はぼやけているし、聴覚も完全ではない。肉体的にも衰弱して体力はかなり消耗していたし、指先どころかまぶたや唇を動かすのすら四苦八苦だ。これは何日かすればすぐなじむと、医者の事前説明はあったし、貴子も性転換病に関する書籍を読んで知っていたことだが、体験してみて初めてわかる辛さもある。最初の一日は視力も回復しなかったし、ベッドからも起き上がれなかった。「このまま一生こうなのではないか」という不安も湧き上がり、性転換最中の激痛と同じくらい、二度は味わいたくない類の嫌な経験だった。
 さらに、意識があるのに下の世話を母親にしてもらったのも、「貴之」のこれまでの人生でワーストスリーに入るくらいの屈辱的で情けない体験だった。ただでさえ女の身体でのそれは初体験だったのだ。特に意識を取り戻してから三日目の朝は、もうそろそろ自力でできるようになっていたにも関わらず世話をされて、ベッドの上で取らされた格好は恥辱いっぱいだった。
 その前夜、二日目の夜も、最初の激しい違和感が落ち着いてきたせいで、かえって、感情をマイナス方向に揺さぶられた。
 ただ横になっているだけでも、根本的な全体の骨格から一回りも二回りも華奢になっていると、嫌でも感じさせられる。全身の筋肉も、まだ力が全然入らずにひ弱で頼りない。毛布の重みや衣服の何気ないこすれ、自然な自重によるベッドとの接触などの皮膚感覚も、すべてが今までとは違う。変に肉付きがよくなっている胸部や臀部、男ではありえない下腹部の外性器、まるで広がって開いているような感覚がある下腹まわりの骨格、子宮や卵巣らしき今までなかったはずの内臓器の存在までも強く自覚させられて、「男の身体ではなくなった」「女の身体になった」「自分の身体が変わってしまった」とはっきりと思い知らされて、鬱屈した気分を抑えきれなかった。泊り込んでいた母親に抱きしめられて慰められたのは、これも後になってみればかなりこっ恥ずかしさをかきたてられる出来事だった。この年になって母親の胸に抱かれて泣き疲れて眠るなんて、好きな女の子や友人には絶対に知られたくないような事件だ。
 なんとか視力も回復して多少動けるようになり、初めて鏡に自分の新しい顔を映してみたのは、その三日目の朝。
 ようやく点滴から流動食へと変わった朝食後、担当の女性看護師の見回りも終わって、昨日一昨日と泊まりこんでいた母親がいったん家に帰って、一人きりになってからだ。病院の個室、薄く青みがかった入院患者用の半袖の貫頭衣姿の貴子は、激しい鬱っぽさをやっと抑え込んで、ゆっくりとベッドから上体を起こした。
 まだけだるさは抜けきっていないし、身体にも慣れていないから、ただそれだけの動作にも労力が必要だった。それでもなんとか、このために用意してもらっていた卓上鏡を両手に持ち、やけに繊細に感じる今の自分の指や手や腕にも鬱屈した心理になりながら、貴子は正面からそれを覗き込んだ。
 そして、思わず息を呑んで、貴子は動きを止めた。
 「現実」は時々、ありのままに受け入れるには過酷な姿をして、目の前に現れる。
 そう大きくはない鏡の中に、貴子の見知らぬ、初対面の女の子がいた。
 ――肩にかかる長さで切りそろえられた、やや色素の薄いまっすぐな黒髪。
 流麗な線を描く小さめな顔立ちに、細く優しげなラインの眉と、甘く夢見るような印象の闇色の瞳。
 高くはないが整った形の鼻梁、ふっくらと柔らかそうな頬、艶やかな桜色の唇。
 透き通った新雪のような白い肌に、華奢でほっそりとした喉元――。
 全体的に大人しそうな、繊細そうな、どこか儚げで可憐な容姿の少女。
 鏡の中のその少女は、真っ向からじっと貴子を見つめ返してくる。
 凝視、と言っていいほどの、痛いくらいにまっすぐな視線。どこか少し驚いているような、愛らしい真摯な表情で、何かに見惚れているかのような瞳で、貴子を直視している。
 そのまっすぐすぎる視線に、貴子ははっと我に返って顔を背けた。
 同じように目を逸らした鏡の中の少女の頬が淡い桃色に染まり、二重まぶたのぱっちりとしたまなこも微かに潤んでいたが、貴子に自覚はなく、もう見てもいない。
 貴子は華奢な腕を下ろして、ベッドにぐったりと横になった。
 「母さんが騒ぐわけだ……」
 そう呟く声も、男だった時とは明らかに変化している。繊細で透明感溢れる、高く澄んだ甘い声音。
 唇や舌の感覚も口内や喉の感覚も、小さな耳が捉える音も、他のすべての感覚と同様に、すべてが今までとはどこか違う。
 貴子は鏡から手を離し、片腕で目を覆った。
 剥き出しの腕が触れるきめ細やかな頬は、少し火照って熱を持っていた。さらさらした艶やかな髪が、微かに二の腕の素肌をくすぐる。
 事前に色々と想像はしていたが、母親にも似ていないし、元の自分にも似ていなかった。貴子の主観で見て、今まで貴子が知っているすべての女性の中でも、五指に入りそうなくらい可愛い容姿の少女。
 『男だろうと女だろうと、顔やスタイルはいいに越したことはない』
 それは貴子のごく当たり前の認識だし、可愛い女の子には自然に目を惹かれるが、だからといって自分がその可愛い女の子になるのは、色々な意味で衝撃的だった。
 そんな少女になりたいという願望があれば幸せを感じたのかもしれないが、貴子の感情は喜びには程遠い。もちろん逆よりは、二目と見られないような醜い容姿であるよりはましだが、かと言って嬉しいかと問われれば、嬉しくもない。
 女になりたいと思ったことはなかったが、なってしまっても現実を率直に受け入れて、今まで通り生きていきたいと思っていた。嫌でも変わっていくものがあるのだろうが、それは日々の自然な流れに伴うもので、性別が変わったからといって無理に自分を変えるつもりはなかった。
 なのに、目立たない地味な女の方が今まで通りの生活が続けやすかったはずなのに、露骨に目立つような容姿。本人が今まで通り行こうとしても、まわりが放っておかなそうな容姿。自分で自分に見惚れてしまいそうになるような、端整で可憐な容姿。
 これからどうなるのか、どうするのか、今の自分をどう思えばいいのか、思考はぐるぐると渦巻く。考えても当面どうしようもないことも多いが、ついつい考えてしまうことも多い。考えておくべきことも多いのだが、心に余裕がないのか、一貫性もなければまとまりも欠く。
 ……しばらくぐったりとしていた貴子は、やがてゆっくりと顔から腕を離し、再び苦労して上体を起こした。
 まだあまり力が入らない両手をベッドについて、両足をベッドから外に出す。慣れていないために重く感じる身体を動かして、貴子は床に降り立った。
 小さな指先からゆっくりと床についた足は、靴のサイズは二十七センチ近くあったはずなのに、やけに小ぶりになっていて、まだ身体全体が本調子ではないせいもあるのだろうが、自分のものではないかのように頼りない。思わず倒れそうになって、貴子は揺れて刺激を送ってくる胸部や臀部の違和感にも耐えながら、ベッドに手を当てて身体を支えて、なんとかまっすぐに立つ。
 漠然と、世界が少し大きくなったような気がするのは、相対的に言って気のせいではないのだろう。今の貴子の身長は、後日母親に計測されることになるが、百五十三センチというところだった。十六歳という年齢を考えても、同年齢の女子の平均よりやや小柄で、男だった時より二十センチ以上低い。
 肩幅やウエストなどは、身長が縮んだ比率以上に小さくなっている。なのに、やけに華奢なウエストに対して、胸まわりや腰まわりは充分豊かだ。そのせいか重心の感覚も変で、まっすぐに立つバランスもとりづらい。
 自分の身体なのに、とてもそうは思えない。
 自分の身体なのに、女の身体。
 女の身体なのに、自分の身体。
 ベッドで横になっているだけでも、腕が胸の脂肪を押したり、お尻がベッドに触れる感覚などを嫌でも意識させられていたが、これが男女差なのだろうか。シンプルなコットンの女物のショーツに包まれている、柔らかい弾力をもったお尻と、なくなったと言うよりも何か別のものがあると感じさせられる、ふんわりとした股間の頼りなさ。胸部も、確実に華奢になっているという感覚と同時に、妙な質感としっかりした重みが存在し、呼吸をするだけで微かに震えて、衣服と触れ合って敏感に刺激を送ってくる。
 顔を下に向けると、視界が遮られて、足元が見づらい。入院患者用の地味な貫頭衣を押し上げている、男だった時はなかった胸部のふくらみ。そしてその下、今は視界を遮られている下半身には、嫌でも意識させられている、繊細な女の部分がある。
 「……っ」
 先ほどの母親の世話の記憶が恥辱感とともに湧き上がり、貴子はそれを振り払うように、貫頭衣の胸元を両手でつまみ、思いっきり前に引っ張ってみた。
 空気が服の中に入って身体を撫で、思わず全身が震える。
 同時に、透き通るように白い二つのふくらみの谷間が、くっきりと鮮やかに目に飛び込んでくる。豊かに隆起して、お椀型の曲線を描いている、男ではありえない形の胸の脂肪。
 服が影を作って、存在ははっきり感じる先端部分は見えない。直接見る前から感覚的にわかってはいたが、小さくはない。むしろ平均より大きい方だと、貴子には思える。
 作り物でもなんでもない、自分の身体。
 自分の身体なのに、男ではない身体。
 自分の身体でありながら、まだ未知の身体であり、女の身体。
 服から一度手を離すと、貴子は服の上から、その二つのふくらみを、左右の手のひらで押さえてみた。
 幼い頃、母親のそれに直接さわって甘えたこともあるはずだが、その頃の記憶はすでにない。
 成長してから意識して初めて自分からさわる、充分に発育した女性の乳房。なのにそれは、女の身体になった、自分の乳房。
 そっと手をあてがうと、その手のひらの感触が変にくすぐったくて、貴子の身体は微かに震えた。
 渾然一体となって襲ってくる、さわる側とさわられる側の感触。昨夜母親にタオルで拭ってもらった時には、自分の身体の在り様もすべての感覚も元の身体とはあまりにも違いすぎて、母親の胸で泣く最後のだめおしになってしまったが、意識して自分でさわりさわられるのはまた感じが違う。
 華奢な手のひらにおさまりきれないその部分は、鼓動や呼吸に合わせて震え、優しく手のひらを押し返している。まだ成熟しきってはいず硬さも残っているのだが、貴子の主観では限りなく柔らかかった。それでいて、今まで体験したことがないような不思議な弾力がある。
 少なくとも、男だった時の自分の身体にはなかった感触。衣服越しに伝わる体温もやけに生々しい。
 手のひらに体温が閉じ込められて接触面がどんどん熱を帯び、どこかくすぐったくて、乳房の中から生まれくるような熱さと合わさって、胸全体が熱く火照る。そっと包み込む手のひらの中心は先端のつぼみの存在をはっきりと感じ、そのつぼみも手のひらのぬくもりを捉えて、その熱は下半身や身体全体にまで広がっていく。
 「貴之」も、健全な高校生「男子」として、女性の身体に対する人並みの欲望がある。
 が、興奮を覚えそうになったが、これが今の自分の身体だと思うと、とたんに、興奮が萎えるのも感じた。
 「こんな身体、おれじゃない……」
 激しく鬱になりそうな感情。
 また泣き叫んで今の自分を全否定したくなる。三度も実行に移すには理性とプライドが邪魔をするが、すべての思考を放棄して泣き喚きたくなる。無意識に貴子の手に力が入った。
 瞬間、華奢な手に握り包まれて、豊かな乳房が柔らかく歪む。
 思わず身体を震わせた貴子は、はっと手を離した。
 ――もっと貪欲にそれを味わいたいつかんだ側の感覚と、つかまれた側の少し痛いうずくような感覚と。そしてやはり、今の自分に対する強い鬱っぽさと――。
 刹那の時間に様々な感情が湧き上がったが、不意に、かなりきわどい思考も、貴子の脳裏をよぎった。
 「……脇坂さんのも、このくらい、柔らかいのかな……」
 これが脇坂さんのだったら、とまで一瞬思ってしまい、貴子の頭にカッと血が上った。
 女になった自分の肉体で好きな女の子の身体を想像する、というのは、控えめに言っても充分倒錯的だった。
 貴子は冷静さを取り戻そうとばかり二度頭を横に振ったが、かえってくらくらして、頬の熱さは消えてくれない。室内はほどよく空調が効いているはずなのに、身体全体がやけに熱い。
 貴子は好きな女の子のことは考えないようにしながら、だがどうしてもついつい想像してしまいながら、隅から隅までじっくりと、新しい自分の身体を「確認」しまくった。



 性転換病の発病のメカニズムは未だに解明されていない。
 中には何度もかかかってしまう者もいるらしいが、現在のところ二度以上発病する者は例外中の例外で、約三十年で公式に確認されているのは全世界でたったの四人と、極めて稀だ。
 その症状は、まず異様な食欲という形になってあらわれる。徐々に食が進む場合がほとんどだが、急激に膨れ上がる患者もいて、その場合は命にかかわることもある。そんな急性の場合を除けば、食欲が旺盛な期間は、おおよそ二週間から六週間ほど続く。かつては性転換病だと気付かずに必要以上に取り乱したり、気付いても性転換という現象そのものにパニックになるものも多かったというが、理解も知識も広まってきた近年では、極端に目立つ問題になることはあまりない。中には性転換病だと気付いて喜んで病院を訪れるものもいるくらいだ。妻や夫や恋人が発病して性転換して、すったもんだのあげくに破局、などというケースはいつになってもなくならないが、今となってはありふれた事例でしかない。
 主な初期症状は異様な食欲だけだが、その食欲や体重の急激な増加のために睡眠が満足に取れなくなり、活動意欲も低下するという問題が生じる。かつては丹念な検査が行なわれていたが、今ではそれらの症状から経験則として性転換病の診断は行われる。稀に誤診もあるが、認知が広まるにつれ、確実に誤診率は減っている。
 この期間に、体重が、元の値によるが三倍以上に増え、その後半から徐々に新陳代謝が異様に活発になって高熱に苛まれるようになる。顔や首も膨れ上がってまぶたにまで脂肪が乗り、肉の塊としかいえないような醜い状態になって、やがてぴたりと食欲が止まり、一週間から三週間ほどかけて急激に肉体が変化する。
 食欲が止まる直前の食事は水分摂取が主で、流動食すら摂ることは難しい。現代では特殊な投薬の類で栄養を補給する手段も確立されているが、かつては過度の栄養失調に似た状態になって死亡するという例もあったらしい。今でも病弱であったりすれば命に関わる。が、逆に持病があっても肉体変化の結果でその病気自体消えてしまうこともあり、思わぬ余禄として、不治の病の治療法として期待をかける者も少なくはない。
 なんにせよ、当事者にはかなり苦痛に満ちた辛い体験になる。身体が完全に、新しく作り変えられるのだから無理もない。性転換後に、元の身体に戻れるなら戻りたいと思う者も少なくはないようだが、この苦痛だけはもう二度と味わいたくないと思う者が圧倒的多数だ。
 身体が作り変えられる過程では、古い身体の要素が老廃物となって全身から頻繁に排出され、嘘でもきれいとは言いがたい光景が展開される。歯も髪も抜け落ちて完全に生え変わり、筋肉や皮膚や骨や眼球すらも腐敗と新生といった様相を呈する、と聞けば、多少はその凄惨さが伝わるだろうか。全身が燃えるような高熱と激しい苦痛に苛まれる本人は、意識を保てないこともあってそんな自分を気遣う余裕はないのだが、周囲の人間もそれを目の当たりにすると精神的に影を落とし、後日トラウマを訴える者も少なくはない。もうずいぶんと前から、その期間は面会謝絶にし、医者と看護師による完全看護というケースがほとんどだ。
 が、その苦しく醜い時期の代償ではないだろうが、性転換後は、生まれたての赤ちゃんのような瑞々しい身体になるし、獲得した性においての性的魅力が増強されていることが多い。
 このことから、性転換病は人間が自分を優位にさせるための生物的能力だとか、進化だとかいう説もある。性的魅力を増大して、自らの子孫を残しやすくするためだというのだ。競争が激しい現代社会で、自身を有利にしようとする生物としての新しい本能だ、と。
 これはまた別種の問題を生んでいる。性的魅力の増強と言っても、もともとの容姿や遺伝的要素もあって個人差はかなり大きいのだが、それでも少しでも美形化を望んで性転換病に憧れる者も現れているし、逆に嫉妬から性転換病経験者へ反発する者も少なくはない。性転換病のことを、悪意をもって「性脱皮」などと罵る者もいて、一昔前に比べるとましになってきているが、それでも負の感情を持つ者はいなくはならない。
 この先、現在の発病率の上昇傾向がこのまま続くのなら、やがて性転換が当たり前のことになっていくのかもしれないが、まだまだ過渡期ということなのだろう。一朝一夕に解決することではないだけに、難しい問題も多かった。
 ともあれ、変化直後は衰弱しているから、ゆっくりと身体を休め、身体に慣れるためのリハビリをして過ごすことになる。まずは異様に長くなっている髪を切ったり、新しい名前に慣れたり、新しい性別の最低限必要な知識を学んだり。本人や家族が望めば専門のカウンセラーのカウンセリングを受けたり、婦人科の健康診断を受けたり――早めに数回通わせておくことで、必要な時に通い易くという意図もあるらしい――、小さなことから大きなことまでやることも多い。それが終わればもう完全に、新しい性別で、健康な人間となんらかわりがない生活が始まる。
 異様な食欲が始まってから体調に問題がなくなるまでの期間は、年齢が低いほど短いとされるが、統計的には一ヶ月から四ヶ月ほどだ。



 一度家に帰っていた貴子の母親は、昼過ぎには病院に戻ってきた。
 普段仕事で忙しくしている穂積雪子だが、あまりわがままを言わない我が子に対しては甘い母親で、息子が娘になったという一大イベントを前に、熱心にあれこれと世話を焼いていた。雪子に言わせれば「カッコいい息子もいいけど、可愛い娘もいいものよね」ということらしい。「まだ下着とパジャマとか、当座必要なものだけだけど、後は退院してから一緒に買いに行きましょうね」とニコニコ笑って、雪子は買ってきた衣服を娘の前に広げて見せる。
 性転換女性向けのハウツー本――男女の身体の違いや女性の身体の一般常識、妊娠出産のメカニズム、月経やオリモノの対処方法、避妊やピルの基礎知識、女性特有の病気の紹介や乳がんなどの自己診断法、性犯罪に対する知識や防犯対策、性転換した人間の経験談やアドバイス、下着の種類や簡単なお化粧の仕方に、そのメリットデメリットなど、大事なことからどうでもいいようなことまで書いてある――を眺めていた貴子は、自分の鬱屈した心理や午前中のことなどおくびにも出さずに、すぐに母親が持ってきた衣服に着替えた。
 ランジェリーというよりは、女児用によく見られるような「肌着」と言った方がしっくりとくる、飾り気のないシャツにコットンのショーツ。それに加えて、病院の中なら問題なく出歩けるような、リハビリ時にも着れるような、着心地と動きやすさを重視したグリーン系色のスウェットの半袖パジャマ。
 さすがに新品の女物の白いショーツを改めて手渡された時には、貴子も強い情けなさを感じて鬱っぽい気持ちが強くなったが、半ば開き直って母親に抵抗しなかった。すでに昨日今日と穿かされていたし、一昨日のオムツに比べれば遥かにましだった。まだ身体が本調子ではない今、勝ち目のない抵抗をしても疲れるだけだという理由もある。
 本気で嫌なら、体調が戻ってから男物のトランクスでもなんでも穿き続ければいいし、いくらでもメンズライクな下着を買えばいい。自分がどう生きるのかを決めるのは自分。まずはちゃんとリハビリをすませて退院することと、新しい身体に慣れて以前と同じような普通の生活に戻ること。それが、今の貴子の最優先課題だった。
 「うんうん、早く退院してね。タカちゃんがいないと、お母さん食生活が寂しくて寂しくて」
 「自分でも作れるくせに。たまには母さんも作ればいいのに」
 今までの男の声とはまったく違う、高域に抜ける透明感のある澄んだ少女の声で、貴子は言う。多少低く言おうとしても、喉を酷使せずに自然に話そうとすると、どうしても元の声の低さとは違う高い声音にしかならない。今の貴子の自然な声は、少し小さな声量で、かなり繊細で可憐な色を持っていた。
 「えー、だってタカちゃんの愛情ご飯のために、お母さん、お仕事がんばってるのよ? お母さんのささやかな幸せを奪わないでよ」
 「子供の幸せも考えて欲しい」
 「あら、もちろん考えてるわ? タカちゃんは男の子でも、女の子になっても、わたしの可愛いタカちゃんだもの」
 雪子はニコニコと笑って、息子から娘になった我が子のさらさらな髪を撫でる。ややたれ目がちになった我が子の、そのぱっちりとしたつぶらな瞳をまっすぐに覗き込む。
 鬱屈した心理の貴子とは違い、そんな母親の態度は以前とほとんどかわっていなかった。今の貴子と元の「貴之」とは、見た目や声も大きく違って、本人でさえ鏡を見てもそれが自分だなんて思えないのに、母親はちゃんと「貴子」と「貴之」とを同一人物と見てくれているらしかった。母親がいったいどう折り合いをつけているのか、貴子にはよくわからないが、そんな母親の態度にはかなりほっとさせられていた。
 昨夜貴子が泣きわめいた時、「どんなに身体が変わってもタカちゃんはタカちゃんよ。男でい続ける必要もないけど、無理に女になる必要もないのよ」と、優しく胸に抱きしめてくれた母親。性別も外見も声も全く違う人間にしか見えないはずなのに、子供が息子でも娘でも、同じように愛情を注いでくれる母親に、貴子は無意識に、胸にあたたかいものを感じさせられる。
 が、その感情に素直になるには、貴子はまだ大人になりきれていなかった。女になったことで思い悩む部分も多いのに、自分が女になったことをあっさり受け入れられるのも、それはそれで複雑だったりする。貴子はちょっとぶっきらぼうに母の手を払い、そんな娘に、雪子は笑って手を引っ込めた。
 「でもね、冗談抜きにね、早く退院してくれないと家がたいへんなの。ご飯は外で食べればすむからまだいいんだけど、掃除とか洗濯とかがね」
 「……母さん。まさかサボりまくってないよね?」
 「えー、サボるなんてとんでもないわ。最初から全部タカちゃんに任せてるだけよ」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「え、え、えっと、そうだ! 今度ふりふりの可愛いエプロン、買っておいてあげるね! 今のタカちゃんには絶対似合うよ!」
 「いらない。そんな暇あるなら、ちゃんと家事しといてよ、頼むから」
 わざとらしくごまかそうとする母親に、今の容姿や声には不釣合いなきつい口調で、しっかりと釘をさす貴子だった。
 夜には、まだ体調が良くない娘のお風呂の世話まで母親がすることになって、また一悶着ありかけたりするのだが、それでも険悪にはならないのだから、充分仲がいい母子なのだろう。
 そんな穂積雪子は、これでもやり手の公認会計士で、大学時代の後輩と共同で公認会計・経営コンサルタント事務所を経営して忙しいのだが、律儀に毎日世話を焼きにきてくれた。さすがに仕事を丸一日休んだのは性転換後の初日とこの日だけだったが、付きっ切りでいてあげられない埋め合わせとばかり、しょっちゅう泊まりこんでいく。学校の授業に遅れないようにと、リハビリの合間を縫って真面目に勉強もしていた貴子は、母親をたまに邪険にしたが、照れ隠しという部分も小さくはなかった。
 なんだかんだで、女になってしまった今の自分を時々全否定して、また泣き喚きたくなったり、自傷行為に走りたくなったり、自分の肉体に欲情して激しく鬱になったりしていた貴子にとって、貴子本人はあまり自覚していなかったが、そんな母親の存在はかなり大きかった。雪子はずいぶんと早い頃から親に甘えなくなっていた我が子との、そんな何気ないやりとりが嬉しいようで、いつもニコニコ笑っていた。
 実際は、息子が娘になってしまったという状況に、雪子も貴子と同じように内心では色々と複雑な思いもあったのだが、それを察することができるほど、貴子はまだ大人になりきれていなかった。「こういう時くらいは思いっきり甘やかしてもいいでしょう?」「こういう時くらいは素直に甘えてくれてもいいのに〜」などと、我が子をからかうような母親の態度にも原因があるのだろうが、自分の感情よりも我が子のことを思い遣っている、そんな母親の気持ちを無意識に感じ取って、貴子はそれで充分安心させられていたのだから、雪子の前では、やはりまだまだ子供だということなのかもしれない。
 母親以外で、貴子のお見舞いに来たのはごく少数だった。
 貴子とも親しい母親の友人たちやその子供たちと、車で数時間の場所に住む母方の祖父母と、学校の三十代女性の担任教師と、後は、学校の生徒が二人。
 高校に入学してからの友人の槙原護と、その恋人の松任谷千秋。
 槙原護は入院直後にも一度一人で見舞いに来てくれていて、それ以降も何度かメールのやりとりをしていた。野球部で秋の大会の真っ直中の護は、九月十日土曜日も試合で、夕方に「勝ったぜい」というメールを送ってきて、「明日の昼から、千秋と一緒に見舞いに行っていいか?」と書いてよこした。
 夏の大会ではベスト16で破れた野球部は、三年生が抜けた新体制になって秋の大会を戦っている最中だが、新副主将になった護が友人のお見舞いをするくらいの時間はあるらしい。貴子は少し悩んでから、了承の返事を出した。
 護の見舞いは覚悟していたことだが、護が恋人と一緒というのは、貴子にはちょっと予想外だった。護の恋人の松任谷千秋とは、二年になってから同じクラスになったとは言え、ただの顔見知りのクラスメートであって、貴子から見た千秋は「友達の彼女」であり、千秋から見た「貴之」も「彼氏の友達」という以上の関係ではない。
 だから貴子は戸惑ったのだが、相手の方にはしっかりと理由があった。ずっと後になって笑い話として聞かされることだが、この時の松任谷千秋には、男から女になった「彼氏の女友達」に対して、彼氏との関係への警戒心があったらしい。
 その見舞いの当日、九月十一日、日曜日の午後。
 セキュリティやプライバシーの問題がうるさい昨今、貴子が入院しているこの私立病院は、事前登録のない見舞い客は受付で名乗り、入院患者に確認をとってから病室に通すことになっている。昼食後のリハビリの指先トレーニングを終えて、雑誌――好きな女の子ができてから毎月購読するようになっていたメンズのファッション情報誌――を広げていた貴子は、内線での連絡に了承の返事をしたが、さすがに少し緊張してしまった。
 変わり果てた今の姿を友人に見せたくもなければ、声も聞かせたくない。母親の友人や祖父母などに会う時もそうだったが――目覚めたら傍にいた母親との対面は勢いですんだが――、女になってしまった姿で親しい相手と顔を合わせることへの抵抗感を消化しきれない。相手の反応次第だから最終的には臨機応変に行くことになるのだが、その相手の反応が怖い。しばらくしてから鳴ったノックの音に、「どうぞ」と返事をする声は、どうしても強張ってしまった。
 男だった時とは違いすぎる貴子のその声に、外の二人はすぐには反応をしなかったが、それでもやがてドアが開く。
 先に入ってきたのは松任谷千秋だ。彼女は挨拶をしようとしたようだが、貴子の姿に言葉を飲み込んだ。果物籠を持った槙原護は一歩遅れて入ってきて、数秒足を止める。
 そして数秒後の護の反応は、完全に貴子の予想外だった。
 「わはははは! うわぁ、すげー! ほんとに穂積か!?」
 「…………」
 いきなり笑い出した護に、とっさに貴子は反応ができなかった。護たちとどう接すればいいのか悩み、できるだけこれまで通り行こうとしていたのに、これはさすがに予想外すぎた。
 慌てたのは横で貴子に見惚れていた松任谷千秋で、彼女ははっと我に返ると、恋人の頭をはたくようにして押さえ込んだ。
 「ば、ばか! なに笑ってるのよ!」
 いやぁだってさあ、と、大笑いしながら、護は言う。
 「あの穂積なんだぜ、変わりすぎだろうこれ! 顔ちっちぇえし背もちぢんでるし! あはははは!」
 「だ、だからって! それは穂積くんとは思えないけど! むちゃくちゃ可愛いし! でもでも、見惚れるならまだしも、なんで笑うのよ!」
 「…………」
 松任谷千秋も冷静とは言えないようで、貴子に間接的にダメージを与えてくる。貴子はなんだか屈辱感が込み上げてきて、思わずぐっと握りこぶしを作った。
 今の貴子は、淡いグリーンの半袖スウェットパジャマ姿で、ベッドの上で上体だけ起こして座っている女の子。顔立ちと声は、可憐で大人しそうで清純そうで。身体も、年頃の少女として充分に発育している、十六歳のやや小柄な女の子。
 貴子自身わかっていることではあるが、今の貴子の容姿は元の「貴之」の容姿とは程遠い。
 唯一「貴之」の面影が残っているのは、髪と瞳の色くらいだろうか。どちらも純粋な黒ではなく、よく見るとほんの微かに茶色がかって、特に一本一本が細い艶やかな髪は、光を透くときらきらと輝いて見える。母親から受け継いだ、やや色素の薄い髪と瞳の色。
 それ以外は「かなり無理に探せば面影も見付かるかも」と言えなくもないレベルで、年齢を考えると童顔にも見えて、その差は激しく大きかった。
 だがだからと言って、男友達に面と向かっていきなり笑われたり、同級生の女子に可愛いとか言われたりすると、貴子の心は傷だらけである。
 笑い続ける護と、それを責めるような咎めるような、なのに貴子にダメージを与えるような松任谷千秋のやりとりは、本人そっちのけでしばらく続いた。「もうどうとでも言ってくれ」という心境になってしまった貴子は、途中からぐったりとベッドに横になって、腕で顔を覆って表情を隠していた。
 ずっとのちに、槙原護はこの時の心境をこう述懐する。
 『いやー、あれはさぁ。笑って冗談にでもしないと、穂積を変に意識しそうだったからだよ。女になったってだけならまだしも、初対面のむちゃくちゃ可愛いコが寝巻きでベッドに座ってたんだぜ? 男を舐めるなっつーの。千秋もいるのに見惚れるわけにもいかないし、おれに千秋がいなかったらはっきり言ってどうなってたかわからんっつーの。コイツは穂積だって、頭の中でひたすら呪文を唱えてたんだぞ』
 「すまんすまん。あー、笑った笑った」
 ようやく落ち着きを取り戻した護の最初の言葉はそれだった。千秋はそんな護の頭をまた叩いて、ボーイフレンドのかわりに貴子に謝ってくる。
 「ご、ごめんね。えっと、穂積さん。じゃ、じゃなくて! ほ、穂積くんって呼んだ方がいい?」
 「……別に、どっちでもいいよ」
 「まっ、穂積は穂積だからな! これは見舞いだ。遠慮なく食ってくれ」
 容姿に見合った貴子の繊細な声に、護は内心怯んだのだが、彼はそれを友人にも恋人にも悟らせない。まだちょっと笑いながら他人事のように言って、護はベッド脇の椅子をガールフレンドの方に動かしてサイドテーブルに近付いた。千秋は「もうあんたは少し黙ってなさい!」と言いつつ、ボーイフレンドが譲ってくれた椅子に腰を下ろす。
 「え、えーっと、身体の調子はどう?」
 「お、これが身分証か」
 穏便に話を進めようとする千秋をよそに、果物籠をサイドテーブルに置いた護は、そこに置かれていたキャッシュカード大の二つ折りのカードを手に取った。左右に広げると、片側に生年月日や年齢、性転換前の性別や名前が、もう片側には、性転換病の発病年月日や性転換後の写真や名前が書かれている。自己申請によって取得できる公的な身分証明書で、申請項目次第では性転換前の写真を伴うこともできる。
 「あんたはまた……。ちょっとは落ち着きなさい」
 「ま、気にすんな。名前のタカコって、自分でつけたのか?」
 「……考えたのは親だよ」
 どんどん勝手に話を進める護に、貴子は腕を顔の上から動かし、ゆっくりと身体を起こす。
 心を妙な疲労感が覆っていたが、貴子の母親が見れば、娘の表情から最初の緊張と強張りが抜け落ちていることに気付いただろう。マイペースな友人の態度のせいで、本人も気付かないうちに、貴子の表情はぐっと自然になっていた。
 「身体はもうだいぶ普通。見舞い、ありがとう」
 「う、うん、名前、可愛いよね」
 「そーか? ありふれてるっていうか、地味っぽくないか?」
 「あんたはまた! 人の名前に変なこと言わない! ご、ごめんね、穂積さん! ほんとにコイツ!」
 「……いいよ。槙原は槙原だし」
 「え? あ、そ、そうよね。コイツはコイツだしね! って、護のことよくわかってるのね」
 「そりゃ穂積だからな」
 「え、あ、そ、そうだった! 穂積くんなのよね! あは、はは、でも、なんか変な感じね。穂積くんが女子になってるなんて」
 無理もないことだが、千秋は貴子が「クラスメートの穂積くん」とはどうしても思い切れず、初対面の女子という印象が強いらしい。千秋は意味もなくちょっと笑って、ちらちらと貴子と護の表情をうかがう。
 貴子はあっさりと「自分でもそう思うよ」と答えた。未だに、声を出しても鏡を見てもそれが自分だとは思えないのだから、千秋がそう思うのもなかった。むしろほとんど以前と同じように接してくる護の方が奇特なのかもしれない。
 「で、女になった気分はどうよ?」
 「……まるで自分じゃないみたいだよ」
 それ以上のコメントは、貴子は差し控えた。
 今の貴子の心理の一部は、「第二次性徴を迎えた少女」が「自分の身体の性」を意識し始める心理に近い部分もあるのかもしれないが、その年頃の少女が絶対的に理解しえないであろう知識と経験の上に、今の貴子は立っている。
 「貴之」にとって、今の自分の身体は、充分に性的な魅力を持った「同い年の異性」の身体。
 嫌がってもしかたがないが、かと言って、例えば性的な堪能に走って無邪気に喜べるほど開き直ることもできない。深く考え出すとすぐ鬱な気分になってしまう。
 「まったく、コレが穂積だなんて違和感バリバリだもんなぁ。見た目も声も、ほんとに穂積とは思えねー」
 「こ、こら、あんたはさっきから! こんな可愛い子にコレとか言っちゃ駄目でしょ!」
 「じゃあおまえは、コレが穂積だって思えるのか?」
 「そ、それは! お、思えないけど……!」
 ごにょごにょと、千秋は口篭もる。「だろ」と言う護の態度は、妙に偉そうだった。
 「つーわけで、深く考えずにいくことに、たった今決めた。穂積は穂積でそういうやつなんだから、変に遠慮したってしかたないからな」
 「あ、あんた穂積さんに手を出す気じゃないでしょうね!?」
 「あほか。何考えてんだよ、穂積相手にその気になるかって。変な心配するなよ」
 護は千秋に手を伸ばし、そっとその髪を引っ張る。千秋は露骨にほっとしつつも慌てたような様子を見せたが、貴子の方は男に手を出されることをつい一瞬想像して、嫌悪感にぞわっと身体を震わせた。
 「……鳥肌たった」
 「え? あ! あはは! ごめんね、変なこと言って! そうよね、穂積さんみたいな子がこんなやつ相手にするわけないよね!」
 「おいこら、自分の彼氏なのに、そんなこと言うか?」
 「あんたなんてそれで充分よ!」
 「ま、確かに千秋にだけ惚れられてれば充分だけどなー」
 「う、く、な、なに人前で恥ずかしいこと言ってるの!」
 「見せつけちゃろうか?」
 「ば、やめなさい!」
 笑って千秋の首に腕を回そうとする護と、微かに頬を染めておおげさに抵抗する千秋は、貴子から見るとイチャついているようにしか見えない。貴子はわざとらしく両手を上げて、もうお手上げ、というふうに天井を仰いだ。ぞんざいな声で、本人の意図に関わりなく客観的には可憐としか言えないような繊細な声で、貴子はぼやく。
 「暑くなるから、そういうのは外でやってくれないかなぁ」
 おまえらなにしに来たんだと、ちょっとつっこみたい貴子である。
 「穂積も早く彼女作ればいいのに。って、今はもう彼氏か?」
 「あ、彼氏すぐできそうよね、穂積さんなら」
 なんとか護を押しやりながら、千秋はちょっと顔を赤らめたまま、貴子が全然喜べないことを口に出す。貴子は鬱っぽさや切なさを押し殺して、わざとシニカルに笑ってみせた。
 「当分は恋愛どころじゃないよ。慣れるので精一杯だから」
 が、シニカルなつもりなのは本人だけで、白く柔らかい頬が微かに緩んだその表情は、護たちにはどこか切なげでとても可憐に映ったらしい。繊細な声の影響もあるのだろう、護も千秋も一瞬ちょっと見惚れて、声が少し上ずった。
 「ま、まあそうだよな、すぐには無理だよな。でも男連中騒ぐぜ、絶対」
 「う、うん、そうよね、わたしもびっくりしたし。た、退院はいつ頃なの?」
 「休学とか転校はしないんだよな?」
 「……そのつもりはないよ」
 近年発病率が上昇して認識も広まっているとは言え、やはり特殊な病気なせいか、余計な諍いを避けるために学校や住居を変える例や、転居先で性転換を隠そうとする例も少なくはない。親しくなってから暴露されると裏切られたと感じる者もいるようだが、隠したくなっても無理はないという理解も広まっている。何も悪いことをしたわけではないから堂々とすべきだという声もあるが、世間の偏見も根強いし、隠すこと自体が非難されることは少ない。
 転校という選択肢を選ばなかった貴子は、隠さないことも同時に選んでいることになるが、わざわざ宣伝してまわるつもりもないから、高校を卒業したら、よほど親しくなる相手以外には結果的に隠すことになるかもしれない。
 「退院は、一応十三日。学校は連休明けの二十日からの予定」
 「ああ、なんだよ、もう明後日には退院なのか。話し方変えねーの? ばりばり男言葉?」
 「今のところ気にしてない。必要を感じたらそれに応じて考えるよ」
 「ちっとは気にしろよ。ギャップ激しすぎだぞ」
 「か、可愛いけど、似合わないって言うか、変に可愛いって言うか、やっぱりなんだかちぐはぐな感じよね、その話し方だと。慣れれば気にならないのかもしれないけど……、目立ちそう」
 「制服とかもどうするん? 女子のを着るのか?」
 「……まだ決めてない」
 あいにくと歴代の樟栄高生たちは要望をあげなかったようで、樟栄高校の女子の制服はスカートしか存在しないが、女子の制服に男子と同系のパンツスタイルを用意する学校は確実に増えている。その影響もあるのか、今の時代、異性装で学校に通っても怒られることはあまりなく、特に性転換病経験者であれば、学校側も相当の配慮をする。
 だから選択肢としてはありなのだが、今の貴子では、男装をしても、顔も身体も女を隠せない。男装することで逆に「女性」が強調されることもあるし、プライベートならともかく学校ではみな制服なのだから、今の貴子のような少女の男装は、男子の中に混じっても女子の中に混じっても、かえって目立ちやすい。
 かと言って、女子の制服を着た方が変に目立たないのは確実だろうが、貴子は女装を情けないと感じるし、女子の制服はスカートだから、中が見えるとか見えないとか余計なことを気にしないといけないのも厄介だ。
 「ほんと、いろいろ面倒くさすぎだな」
 いつのまにかすっかり以前と同じように護たちと言葉を交わしながら、貴子は可愛い声に不釣合いな口調で、そう愚痴をこぼした。





 to be continued. 

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初稿 2008/02/26
更新 2014/09/15